第一章 ~『訪れてきた坂本』~

 目を覚ますと窓から光が差し込んで、僕の顔を照らしていた。どうやら一晩中、龍馬の追体験に夢中になっていたらしい。ベッドから起き上がると、シャワーを浴びたり、服を着替えたりなどで身支度を整える。


「兄さん、おはよう。朝ごはんできているよ」

「ありがとう……今日はトーストと目玉焼きか」

「目玉焼きは会心の出来だったの。食べてみて」


 僕は咲の作った目玉焼きに齧り付く。すると口の中に広がったのは卵の味ではなく、強烈な塩味であった。なぜこいつは目玉焼きを不味くすることができるのかと不思議に思っていると、彼女は僕の方をジッと見つめる。


「どう? 美味しい?」

「……昨日よりは美味しいかな」


 本当のことである。昨日の目玉焼きは卵の殻で歯ごたえを生み出す狂気の料理だった。それに比べれば塩辛いくらい、耐えるのはわけない。


「良かった。この調子で料理の腕を上げて、将来できる彼氏のために備えないと……それまで練習台頑張ってね、兄さん」

「料理に犠牲は付き物だからね。僕のできる範囲で頑張るよ」


 トーストを口に詰め込みながら、コーヒーで流し込む。慌ただしい一日の始まりはいつも通りであるが、不意にならされたチャイムによって日常が非日常へと変わる。


「こんな朝早くから誰だろう?」

「訪問販売……にしては早すぎるね」

「強盗だったりして」

「強盗がわざわざチャイムを押すとは思えないけど」

「それもそうだね。私、ちょっと見てくるね」


 咲が訪ね人を確認するために走り出す。そして玄関の扉を開けると、家中に響くような大声を上げた。


「まさか本当に強盗!?」


 背中に冷たい汗を流しながら玄関へ向かうと、そこには強盗以上に見たくない顔があった。大きな瞳に、絹のような黒い髪――坂本牡丹である。


「え、どうして、坂本先輩がこんなところに……」

「才谷くんと一緒に登校しようと思って」

「う、嘘でしょ。こんなことありえない。兄さんが坂本先輩と一緒に登校だなんて、それならまだ兄さんが隕石に衝突して死んだ方が信じられるよ」


 僕としても隕石より厄介な女性の登場に眉を顰めるしかない。視線で迷惑だと告げると、彼女は目元に涙を貯める。


「才谷くん、もしかして、私、迷惑だった?」

「うん」

「に、兄さん、あなたは馬鹿なの!? 相手はあの坂本先輩だよ。高等部一の美女だよ。一緒に登校のお誘いがあれば、嬉しさで失神するくらいのことはして見せるのが礼儀だと思うよ!」


 そんな礼儀があってたまるか、という僕の言葉は咲の強引な態度に押し殺されてしまう。結果的に、坂本と肩を並べて登校することになった。


「なぜ僕なんかと一緒に登校を?」

「先日、伝えた通りだよ。私、君のことが好きなの」

「冗談は聞き飽きたのだけど」

「うふふ、冗談のつもりはないよ……ただ才谷くんを驚かせたかったという気持ちがなかったといえば嘘になるかな」

「やっぱりか」


 坂本は僕をからかって楽しんでいるのだ。その証拠に嬉しそうにクスクスと笑う。


「そろそろ学校が見えてきたね」

「だね」


 二人で肩を並べて、学校の門をくぐる。女子生徒からは好機の視線が、男子生徒からは嫉妬の視線が僕に鋭く突き刺さる。すれ違う男子たちの殺してやるという眼つきには、岡田以蔵にも引けを取らない殺意が含まれていた。そんな彼らの殺意を受け流しながら、二人で教室の扉を開ける。


 クラスメイトたちはまず坂本の姿を認める。さすがは人気者。皆の顔が笑顔になった。続いて僕の方を見る。まるで蟻でも見るような、あ、そこにいたんだね、とでも言わんばかりの無関心さだ。


 僕は坂本から離れて、一人、窓際の席に座る。彼女は友人たちに引き留められ、仲良さそうに話を始める。彼女と話せることが嬉しいからなのか、友人たちの声は教室に響き渡るほどに大きく、当然、僕の耳にも届いてくる。


「坂本はどうして才谷なんかと一緒に登校してきたんだ?」


 質問を投げかけたのは整った顔と陽気な性格でクラスでも人気者の小泉だ。坂本のことが好きだという噂もある。


「私が才谷くんと一緒に登校してくるのが変かな?」

「そりゃ、あんな根暗と一緒に登校してくるんだ。何か事件でも起きたのかと心配になったぜ」


 まるで僕が犯罪者のような口ぶりであるが、僕をストーキングしてきたのは坂本の方である。根暗だからと一方的に悪だと決めつけられるのは心外であった。


「あ、そうか。分かったぜ。坂本は才谷と同じ図書委員だもんな。だからだろ?」

「坂本さん、やっさしー。私は同じ委員でも、あいつと話すのは無理かな」


 僕も君と話すのは無理です、名も知らぬギャルよ。


「でもあんまり無理しない方がいいぜ。変に期待させて、ストーカーになっても困るだろ」

「ん? 別に無理はしてないよ。私が才谷くんと話したいから話しているの」

「話したいからって、まるで才谷のことが好きみたいだな」

「うん。好きだよ」

「え?」

「だから好きなの。でも残念ながら望んだ答えは得られてなくて、まだ恋人には昇格できてないんだけどね」

「そ、そうか……」


 小泉はその端正な顔を引きつらせる。ざまぁ見ろと思っていると、一限目開始のチャイムが鳴る。着席を命じられた生徒たちが席に座っていく中、小泉はわざわざ僕の方まで近づくと、耳元で「調子に乗るなよ」と小さく囁く。


「本当、面倒なことになったな」


 坂本との接触により危惧していた事態の発生に小さくため息を漏らす。窓の外の雲はそんな僕の気持ちを知ってか知らずか、気持ちよさそうに青い空を泳いでいた。

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