第二章 ~『千葉道場からの救いの手』~


 揺れる視界が次第に鮮明になるに連れて、身体を揺さぶる力が大きくなっていく。いったい誰が揺らすのかと瞼を擦ると、そこには寺田屋の女将であるお登勢のふくよかな顔が待っていた。


「龍馬さん、ようやっと起きたねぇ」

「お龍さんは?」

「出かけているよ……もしかして私じゃなくて、お龍に起こして貰いたかったかい?」

「…………」


 寝起きに見るのなら美人の顔が良い、とはさすがに言えない。


「そんなことより龍馬さんにお客さんだよ」

「お客?」

「なんでも江戸からの客だとか」


 僕はこれで確信する。どうやら体験している時間は寺田屋事件が起きた時ではないようだ。その証拠に楢崎龍の姿もなければ、伏見の奉行が訪ねてきた様子もない。


「江戸からの客か……」


 僕はお登勢に寺田屋の客室に案内される。そこには見知った顔が二つあった。千葉道場の重太郎とさな子である。


「龍馬くん、元気にしていたかい?」

「元気ですよ。重太郎さんも元気そうで何よりです」

「ははは、龍馬くんの顔が見られたんだ。元気百倍さ」


 重太郎は龍馬に会えたことが嬉しいのか、少年のような無邪気な笑みを浮かべる。龍馬の人望が笑顔越しに僕にも伝わり、なんだか嫉妬で悔しささえ覚える。


「龍馬さん、お久しぶりです♪」

「久しぶりですね」


 さな子の方も龍馬に対する好意を全身から剥き出しにしている。目にハートマークが浮かんでいても驚かないほどに、彼女の愛情がひしひしと伝わってきた。


「二人とも今日はどうしてここに?」

「実は江戸に帰ることになってね。その挨拶に来たんだ」

「それは……寂しくなりますね」

「だから龍馬くん、君に一つ提案があるんだ」

「提案?」

「君は脱藩したそうだね」

「はい……」


 この時代の武士は藩に雇われ、給料も藩から貰っている。脱藩とは武士が藩と縁を切り、浪人となることである。


 これだけ聞くと、現代人なら会社を辞めたようなものかと想像してしまうが、江戸時代における脱藩は勤め先を辞めるような生易しいものではなく、死罪に処される重罪だった。つまり当時の龍馬は犯罪者だったのだ。


「龍馬くん、君は危険な話に首を突っ込んでいると聞いた……なんでも討幕を企んでいるとか……」

「それは……」

「そんなことは止めて、真面目に生きてみないか?」

「…………」

「私はね、君が好きだ。親友だし、弟のように思っている。私の父に関しても同じだ。君のことを息子のように可愛がっている。だから是非君には生きて欲しいんだ!」

「…………」

「君さえ良ければ江戸に来ないか。脱藩に関しては許して貰えるよう幕府に頼んでもいい。な~に、千葉道場は天下の北辰一刀流だ。幕府の重鎮にも顔が効く。君一人を無罪にするくらい何とかしてみせるさ」

「重太郎さん、あなたに迷惑をかけるわけには……」

「いいんだ。迷惑ならいくらでもかけてくれ。私たちは家族じゃないか」

「家族……」

「何なら本当の家族になろう。さな子を嫁に貰ってくれ」

「に、兄さん!」

「さな子は黙っていなさい。龍馬くん、私の夢は君とさな子の晴れ姿を見ることなんだ。幸いにも、男嫌いのさな子が君にだけは心を許している。いや、許しているなんてものじゃない。私と話すときはいつも君の話題ばかりだ。こんなにも愛されて、兄の私が嫉妬してしまいそうだよ」


 重太郎の気持ちは僕にも痛いほど分かる。太陽は光という恵を与えると同時に暑さという苦痛を与えるように、龍馬という男は魅力の炎で僕らを嫉妬させるのだ。


「重太郎さん、僕は脱藩浪士です。さな子さんとは一緒になれません。それに彼女もきっと嫌がります」

「りょ、龍馬さん! わ、私は嫌がったりなんてしません。私はずっとあなたのことをお慕いしてきたのですから!」


 犯罪者だから身を引いてくれ作戦は失敗に終わる。彼女の好意は僕が思っていた以上に強い。


「申し訳ないが僕にはやらなければならないことがあるんです」


 僕は二人に頭を下げると、丁度タイミング良く、部屋の襖が開かれて、お登勢が顔を出す。


「龍馬さん、薩摩の使いの人が来ましたよ」

「今行くよ」


 僕は再度別れの挨拶をすると、部屋を後にする。その背中を追いかけるように、さな子は立ち上がった。


「龍馬さん、私、あなたが脱藩浪士でも構いません。ずっと待っていますから。あなたが私の元へ帰ってくるまで、私は誰とも結婚せず、あなたの居場所を守り続けますから!」


 さな子は涙をポロポロと零して僕を見送る。その涙は僕が龍馬のことをさらに嫌いになるくらいに美しかった。


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