7-5

 今夜の試合自体は非常にテンポのよい展開だった。

 片や百二十球を数えるエースの力投、片や五人の投手による小刻みな継投。

 初回に1点ずつ取り合ったまま膠着したゲームに決着をつけたのは、話題にあがった志貴原選手のサヨナラホームランである。しかも左翼手が一歩も動けないほどの完璧な当たりだ。


 席を立ち、帰路につく観客たちは口々に先ほどの場面について語り合い、余韻に浸っている。もちろん私と島ノ内くんもその例に漏れない。


「年イチのMVP志貴原、まさか今日炸裂するとはねー。いいもの見たわ」


「うん、本当に凄いホームランだったよ。今シーズンはこのまま活躍してほしいな」


「いやいや、そう思わせておいて期待を裏切るのがやつだよ。で、ファンがもう見放しかけたところでまた大暴れ。あのもどかしさこそ志貴原の真骨頂だから」


「応援してるの? けなしてるの?」


「ふっふ、この複雑な乙女心がわからないとは、まだまだ島ノ内くんもお子様ね。私のような成熟した大人ってのはさ、一つの言葉ではとうてい表し切れないものなのだよ」


 もちろん彼からのツッコミ待ちである。

 なのに島ノ内くんときたら、「そういうところも先生の魅力だもんね」などと真顔で頷いているのだ。

 やばい、これは恥ずかしい。

 そんなときは素直に謝るにかぎる。


「ごめん、調子に乗りました。ガキンチョは私の方」


 舌を少し出しながら、右手は隣を歩く島ノ内くんの指へ絡めていく。

 いきなりだったせいか、彼は明らかに照れていた。


「言ってることと行動が一致してないよ……」


「そう? じゃあ離しちゃおっかなー」


 つい意地悪してみる私に対し、島ノ内くんは無言のままで強く握ってきた。

 そのまま手を繋いで私たちはゆっくりと歩く。

 スタジアムの外へと出てみても、まだ興奮冷めやらぬといった様子の大勢のファンが盛り上がっていた。殊勲の志貴原選手を称えるコールも止まない。


「──次来たときは、あいつのレプリカユニフォームを買おう」


 ミーハー魂全開である。

 隣の島ノ内くんは苦笑いを浮かべていたが、どういうわけかすぐに驚きの表情へと変わってしまう。

 そして「先生、あっち見てあっち!」とフリーの右手で前方を指差した。


「何よそんな慌てて……って、おわっ」


 三十一歳の女にあるまじき声が口から飛び出してしまった。

 島ノ内くんが指差す先にいた三人組も、こちらに気づいて手を振ってくる。

 そこにいたのは鵜野夫妻と、もう一人は今もフランスで修業しているはずの晶奈ちゃんだったのだ。


「やっほーユーキさーん、お久しぶりでーす。リクくんもー」


 ぶんぶんと一番力強く手を振ってくれている晶奈ちゃんのところへ、私たちは小走りで駆け寄っていく。

 彼女の渡仏前の送別会以来だから、いったい何年ぶりになるだろうか。


「香織と鵜野シェフがここにいるのも驚いたけど、晶奈ちゃんはいつこっちに帰ってきたの?」


 私の両手が島ノ内くんから晶奈ちゃんの手へと移動する。


「実は今度、日本へ戻って東京のレストランで働くことになりまして。で、その前にシェフへ挨拶しておこうと」


「それがね、間宮さん」


 楽しくて仕方ない、といった弾んだ声で鵜野シェフが話を継いだ。


「聞いたらびっくりしますよ。晶奈の行く店、何と千尋のところなんですから。しかもスーシェフとして声を掛けられたってので二度びっくりです」


 スーシェフとはいわゆる副料理長、シェフの次にあたるポストだと以前に香織から教えてもらっていた。

 え、ちょっと待って。千尋くんが勤めているレストランって相当の名店だったはず。それってめちゃくちゃすごいんじゃないの?

 私の素朴な疑問へ「そりゃもう」と簡潔に答えてくれたのはやはり鵜野シェフだった。彼女、どれほど海外修業で腕を上げたというのか。


「そんなお店で再び晶奈ちゃんと千尋くんが揃うのかー。くーっ、場違いだろうけどせめて一度くらいはお邪魔したい!」


 横では島ノ内くんも大きく頷いている。

 だったら、とここまで静かに見守っていた香織がようやく口を開いた。


「夕希さんと島ノ内くん、二人の新婚旅行のルートに組み込んでしまえばいいじゃないですか」


「なんと、新婚旅行!」


 この手の話題に晶奈ちゃんが食いつかないはずがない。とんでもなく成長したとはいえ、かつてと変わらぬ部分があるのはちょっぴり安心もする。


「じゃあやっぱり、ユーキさんとリクくんは付き合うようになってたんですね! 純愛じゃないですか!」


「やめて、純愛とか言うのほんとやめて」


 そういう恥ずかしい恋愛フレーズは勘弁していただきたい。深い穴に潜り込んだまま出てきたくなくなってしまう。


「ぜひ、ぜひ来てください! 宮坂さんだって超絶張り切るはずです!」


 しかしそこへ水を差すかのごとく、香織があからさまなため息をついてみせた。


「でもね晶奈さん、この二人はまだお互いをファーストネームでも呼び合えてないのよ。島ノ内くんに至ってはいまだに先生って呼んでるんだから。先が思いやられるでしょ」


「そのぎこちなさ、むしろたまりませんね!」


 とってもいい笑顔で晶奈ちゃんは言い切った。

 それでも、槍玉に挙がった島ノ内くんは少し堪えているらしい。


「マダム香織の言う通りです。先生を名前で呼ぶと考えただけで、頭の中がわーってなってしまって」


「ちょっと待って。何その、マダム香織ってのは」


「え? だって先生が……」


 そう言って島ノ内くんは私の方を見た。

 まあ、たしかに私のせいである。八子から鵜野へと姓が変わり、教職でもなくなった彼女をどう呼べばいいのか。

 そんな質問を彼から受けた際に「マダムでいいじゃん。マダム香織」と適当に答えたのは私だからだ。

 日本でいえば、まあ女将のような呼称である。


 ここで鵜野シェフから「場所を移そう」という提案があった。聞けば、すでに居酒屋六右衛門を押さえているのだという。しかもちゃんと五人で。

 スタジアム前から離れ、店へと向かって歩きだす。私は後方で香織と並ぶような形となった。

 なので気になっていたことを訊ねてみる。


「ねえ、どうして私と島ノ内くんがここにいるってわかったの?」


 そんな私を「はあ?」と言わんばかりの目で見遣ってきた。

 うむ、懐かしい。


「ついこの前、『久しぶりに島ノ内くんと野球を観に行ける』ってうれしそうに教えてくれたじゃないですか。ほら、プロポーズされた報告の電話のときですよ。覚えていないんですか?」


 そういえばそうだった、かもしれない。

 何せあまりの出来事に気が動転していたのだ。覚えていなかったとしても無理もないぞ、私。

 だが、そのプロポーズにちゃんと返事をしたのはつい今しがたの話だ。

 なぜ香織は「新婚旅行」などと先走ったことを口にしたのだろうか。

 その質問にもまったく動揺せず、涼しげな表情で答える。


「たぶん、今日この場所で受けるんだろうなって思ってましたから」


「あんたはエスパーか……」


 私の頭の中にはかつての記憶が蘇っていた。

 いったんは島ノ内くんを突き放し、迎えに来てくれた香織の前で大泣きしてしまったとき。

 彼女が想いを実らせて鵜野シェフと付き合いを始めた、と教えてくれたとき。

 そして三度、ここで節目のときを迎えたというわけだ。

 いつだって香織は私のすぐ隣にいてくれたんだよなあ、と感慨に浸っていたところを、当の彼女の声によって引き戻されてしまった。


「さて夕希さん。今夜はあなたたちがお互いをファーストネームで呼び合うまで、解放する気はありませんのでそのつもりで」


 少し距離が開いたせいで、前を歩いていた三人がこちらを振り返る。

 島ノ内くんの顔を一瞥した私は、重々しく友人へと告げた。


「善処する」


 もう、と珍しくふくれっ面になってしまった香織があんまりおかしくて、どういうわけか私は涙が出てしまうくらいに笑ってしまった。

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間宮先生、今日はどこへ行きますか? 遊佐東吾 @yusa10

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