幕間 時代おくれ
幕間ー1
ポワソン・ダヴリル、フランス語で「四月の魚」。要するにエイプリル・フールズ・デイのことである。
客から店名の意味についての説明を求められることはしばしばあるが、宮坂千尋は決まってそのように答えていた。返ってくる反応もだいたい似通っており、大半の人は曖昧な笑顔を浮かべてそこで話は終わる。
おそらくは「何と天邪鬼な」とでも思われたのだろう。
だがオーナーシェフである鵜野によって名づけられた〈ポワソン・ダヴリル〉には別の意味も込められていた。鵜野いわく「古くさい人、時代おくれの人」。
世相に流されることなく、クラシックを大事にしながら己の料理を追求していく。千尋の目に映る鵜野シェフはまさにそういう人間だった。
本人に直接そう伝えたことだってある。けれども鵜野は「ただ単におれは時代おくれなんだよ」と自嘲するのみでまともに取りあおうとはしなかった。
以来、千尋も店名については表面的な説明をするのみに留めている。
朝、その〈ポワソン・ダヴリル〉へ向かって千尋は軽快にペダルを漕いでいた。カジュアルな服装とデイパック、そしてお気に入りのカラフルなクロスバイク。これがいつもの通勤スタイルだ。
夏の暑さはまだ残っているものの、雲はすっかり秋のそれへと変わっていた。いつの間に、などと千尋は思う。
時間にして約三十分、とりとめもなく考えごとをしていたら着いてしまうくらいの距離ではあるが、それでもサドルから下りて店の裏へとクロスバイクを止めるころには結構な量の汗をかいていた。
「おはざーっす」
タオルで汗を拭いつつ、ノブを回して裏口から入る。
「おう、おはようさん」
千尋が出勤してくるのはだいたい九時すぎであり、その頃にはすでに鵜野シェフはその日に使う食材の仕込みを半ばほど終えている。
あまり音のよくない古いCDラジカセで、アップテンポなジャズを流しつつ仕込みを進めていくのが鵜野の習慣なのだが、そのスイッチを切りながら彼は訊ねてきた。
「千尋、おまえ今日もチャリで来たのか」
「そうすけど」
「午後から雨だぞ」
「……マジっすか。晴れてるのに」
千尋の顔が思わず歪む。天気予報を確認せずに出てきたため、雨具の用意などは一切していない。となればずぶ濡れを覚悟で帰る以外の選択肢はなかった。
「ま、ひどい雨ならおれが車で送ってやるよ」
「大丈夫っすよ。気合でどうにかしますんで」
「ばかやろ。それで事故にでも遭ったらうちの店はどうする」
冗談めかした言い方だったが、声の底には有無をいわせぬ迫力がある。
「うぃーす。じゃ、もし土砂降りだったらシェフが運転している後ろでふんぞり返らせてもらいます」
「よし、トランク決定な」
コックコートを脱ぎながら千尋へ無情な通告をし、しわだらけのシャツを羽織った。
「じゃあ三浦さんのところに行ってくるわ」
留守をよろしく頼む、と言い残して鵜野は出掛けていく。
彼が向かったのはブーランジェリー・ミウラというパン屋だ。「餅は餅屋」という鵜野の考えにより、料理とともに提供するパンはすべてそこで焼いてもらっている。店頭での通常販売は行っていない、特注品だ。
「三浦さんはうちのシェフに輪をかけて近寄りがたい人だからなあ……」
鵜野に用事があるときは車を借りて千尋が代わりに出向くのだが、三浦の顔はいつでも険しい。笑った顔どころか、穏やかな表情さえいまだお目にかかったことがない。
そんな三浦と鵜野はほぼ同年代なのもあってか馬が合うらしく、時々は行きつけのワインバーで料理談議に花を咲かせるのだという。
「次はおまえも来い」と鵜野から言われているのだが、妥協を許さぬ頑固な職人二人の会話にはたして上手く入っていけるか、千尋としては今から不安で仕方がなかった。
まずは私服姿のままでホールの掃除を済ませてから、白いシャツと黒いギャルソンタブリエ、シンプルなユニフォームへと着替えた千尋はきびきびと昼の営業準備に取りかかっていく。
昨夜の段階で今日はランチもディナーも満席となっていた。小さい店であるため、席が埋まるのはあっという間だ。来店するそれぞれの客の予約時間や人数、アレルギーや苦手食材の有無などを確認し、テーブルセッティングへ移ろうとしたとき店の電話が鳴った。
「お電話ありがとうございます、レストラン〈ポワソン・ダヴリル〉でございます」
今晩の予約は大丈夫か、という電話だった。
「申し訳ございません。本日のディナーはすでに満席となっておりまして。はい、はい。またよろしくお願いいたします」
これ以上の予約は受けられないことを示すため “complet” とフランス語で殴り書きされている台帳を指でなぞりながら「失礼いたします」と電話を切る。
九月二十二日の夜の予約欄に、鵜野の汚い字で書かれていた「帯刀先生、二名、19時半」の文字を見て、千尋は今日が特別な日であることにようやく思い至った。
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