幕間ー2
「どうもありがとうございました。お気をつけて」
ランチタイム最後の客が帰っていくときにはすでに雨が本降りとなっていた。
千尋が頭を上げると、ともに見送っていた鵜野シェフから静かに声を掛けられた。今にも雨の音にかき消されてしまいそうな、そんな声だった。
「悪いが、今日はちょっと出掛ける」
「はい」
鵜野から細かい説明はないし、千尋もどこへ行くのかなどとわざわざ確認したりはしない。ただ簡潔に了承の意を伝えるのみだ。
すでに用意をすませていた鵜野は、店から少し離れた場所にある駐車場へと歩いていく。知り合いの方から譲り受けたという古いワゴンタイプの外車に乗っているのだが、年数といい走行距離といい、もうとっくに引退していなければならないほどの数字である。
正直なところ、千尋としてはなるべくなら鵜野から車を借りたくないし同乗だって避けたい。いつどこで壊れてもおかしくないからだ。密かにつけたあだ名がロシアン・ルーレット・カー。
ぼふん、という豪快な音とともにエンジンがかかるのが千尋の耳にも届いてきた。そうしてようやく彼は店内へと戻っていく。
しばらくは休憩時間となるが、まずは昼食を作る必要があった。材料はすでに鵜野が用意してくれていたため、あとは簡単に調理するだけでいい。
ガスコンロに火をつけ、いくつかの野菜とランチタイムのメインディッシュとして出していた豚肉の切れ端、これらをシンプルに塩胡椒で炒めていく。素人の域を出ないので匙加減は適当だ。
いつもであればサラダや汁物といった何かもう一品を用意するのだが、この日はそんな気になれず手抜きの賄い料理ですませることにした。
きっと雨のせいだ、と千尋は自分に対して言い訳をする。
大きめに切ったバゲットを軽く温め、作った炒め物に添えて完成となった。ホールのテーブルを食卓代わりとして千尋は一人席につく。そして「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。
彼は鵜野シェフが昼食もとらずに向かった先を知っている。
地方都市の郊外であるこの付近には、山とも丘とも判断がつかないような地形が多く見られる。その中のひとつにかなり以前からある霊園が斜面を覆うように広がっていた。霊園には鵜野にとってとても大切だった人が眠っているのだ。
〈ポワソン・ダヴリル〉で働きだして一か月ほど経った頃、千尋は初めて鵜野に飲みに連れていかれた。
そのときの鵜野はやたらと酒を飲むピッチが速く、酔いのせいなのか普段なら絶対に口にしないような自分の話もいろいろと聞かせてくれた。
かつて鵜野にはとても仲のよかった幼なじみの女の子がいたのだそうだ。
小学校、中学校はもちろん同じ学校だったし、鵜野の進学先がバレーボールの強豪校だったため高校は別となってしまっても二人の距離が遠ざかったりはしなかった。
鵜野が二年生ながらレギュラーとして全国インターハイに出場したときはわざわざ遠くの会場にまで応援しに来てくれたそうだから、もしかしたら成長した二人は互いに恋愛感情を抱くようになっていたのかもしれない。
だが彼女は死んだ。無理な運転をしていた車にはねられ、そのままあっけなく帰らぬ人となった。
練習が終わるまでそのことを知る由もなかった鵜野は死に目に立ち会うことすらできず、受け入れがたい事実を後になって聞かされただけだ。
次の年の全国大会にもきっちり出場し、卒業後は東京にある名門調理師学校へと進んだ鵜野は周囲からすれば大きなショックから立ち直ったように見えていたことだろう。
そうではなかった。幾多のレストランで経験を積み、海外でも修行してきた彼が帰国して地元で自分の店をオープンする運びとなったとき、その場所として選んだのは幼なじみの少女が眠る霊園のすぐそばだったのだ。
三十を超えても結婚相手を探すことなく、月命日には墓参りを欠かさない。鵜野の人生はいまだにその少女、倉橋志穂とともにあった。
今にして思えば、酒の力もあったとはいえ彼が千尋にそのような非常にセンシティヴなことをしゃべったのは、それまで一人でやってきた反動もあったのかもしれない。そう感じる程度には千尋も大人となっていた。
鵜野が今でもその人のことを忘れられないというのは千尋にだって理解できる。
縛られているなどとは言ってしまいたくない。だからといってこのままの状況が続くことがいいとはどうしても思えなかった。
もう結婚して家を出ていってしまった姉から「友人が鵜野シェフに一目惚れした」のだと相談されたのはつい先日のことだ。
橋渡しする妙案がどうにも浮かばず、もう一人のお節介な友人から「千尋くんも巻きこもう」と提案されたため連絡してきたのだという。
面倒なことはお断り、といつもなら姉が相手であろうとけんもほろろな対応をするのだが、今回ばかりはそうもいかない。
恩人である鵜野シェフのために少しでもできることがあるのなら。そんな思いが千尋の脳裏に去来する。
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