幕間ー3

 ランチタイムとディナータイムの間、食事を終えればいくらかは手持ち無沙汰な時間となる。


「そういう空いた時間をどう使うかでおまえのこれからが決まってくるぞ」


 入店して間もない頃の鵜野シェフの言葉を思い出しながら、千尋は雨音をBGM代わりにしてワインについて書かれた本を広げた。

 自らのこれからに確たるヴィジョンがあるわけではない。

 ただ、成り行きで始めたレストランサービスという仕事は意外なほど千尋の性に合っていた。であればソムリエの資格もできるならばとっておきたい、そう考えていた。少なくとも勉強しておいて損はない。


 しばらくは電話が鳴ることもなく静かな時間が続き、自然と千尋は集中していった。ワインについて覚えなくてはならないことは恐ろしく多岐にわたる。赤ワインと白ワイン、それぞれの葡萄の品種名といった基本的な部分から、香りや味わいの表現の仕方、生産される地域や畑、製造工程、歴史などなど。

 歯応えはありすぎるほどだが、受け身の姿勢だった大学時代の勉強とは異なり自分から学んでいくことの面白さをようやくわかりだしていた。


 キリのいいところで本を閉じた際に腕時計へと目を遣ると、針は午後四時過ぎを指している。


「さて、やりますか」


 そんな独り言を呟いて立ち上がった千尋は首をこきっと鳴らす。

 店の裏にある倉庫からまずはドリンク類の補充を取ってこよう、とキッチンを抜けて外に出ようとするが、千尋がノブに手をかけるよりも早く猛然とドアは開かれた。


「うっひゃー、濡れた濡れた。何このクソ雨」


 素っ頓狂な声をあげながら前を見ずに入ってきた雨合羽姿の女性が、そのままの勢いで千尋に真っ直ぐぶつかってしまう。


「あ、宮坂さん、おはようございまーす」


 悪びれた様子もなく彼女が挨拶してくる。

 高柳晶奈、調理師学校に通うアルバイトであり、現在は〈ポワソン・ダヴリル〉に入ってきて三か月目である。

 少しだけシャツが濡れてしまったが、放っておいてもそのうちに乾くだろう。そう判断した千尋は高柳の不注意を特に咎めたりはしなかった。


「うーす。晶奈、メシは?」


 フードを脱いだ高柳が右手を腹のあたりへとやる。


「おにぎり二個だけしか食べてないんでお腹がかわいそうなことになってます」


「だったらそこに賄いを置いてあるから」


 五口あるガスコンロに一つだけ置かれている鍋を千尋は指差す。

 途端に高柳は顔を綻ばせて言った。


「やー、シェフのごはんを食べるのだけがあたしの楽しみみたいなもんなんで」


「残念、今日はおれが作った」


「うそっ」


 清々しいほどあからさまな対応の差に、千尋はわざとらしく渋面を作ってみせる。


「嫌なら食べなくて結構ですが」


「やだなもう、宮坂さんたら本気にしちゃって。女の子はつい心にもないことを言ってしまうものじゃないですか。知りませんでした?」


「初耳だわ。つーかそもそもここに女の子はいねえ」


「ひどっ」


「早とちりだな。大人の女性として扱ってるってことだよ。とりあえず着替えて、それからメシ食え」


「上手くごまかしたつもりですか。だまされませんよ?」


 口ではそう言いながらも、高柳の表情は満更でもなさそうだった。

 彼女はどちらかといえば不器用な部類に数えられるであろう人間だ。嘘をついたりごまかしたりするのは下手くそだし、仕事の飲みこみも決して早くはない。


 だが彼女には器用な千尋にはない愚直さがあった。出来なければ出来るようになるまで繰り返す。

 言葉にすれば当たり前のように感じられるが、実際にやるとなるとどれほど難しいことか。思いこんだらひたすら真っ直ぐ、それが高柳晶奈という人間の強さだと千尋は感じている。


 この店で働きたいと最初に彼女が言ってきたとき、鵜野は即座に断った。

 アルバイトの募集はしておらず、オーナーシェフである鵜野にしてみれば戦力になるかどうかも定かではない専門学校生を雇う理由はなかった。

 それでも高柳はめげることなく何度もアタックをかけてきた。最終的に「給料はいりませんから働かせてください」という彼女の言葉で鵜野が折れた形となった。

 もちろん〈ポワソン・ダヴリル〉の一員となった高柳には、働きに見合った給料がきちんと支払われている。


 どうしてそこまでしてこの店で働きたいと思ったのか。そんな疑問を何気なく投げかけたことがあった。

 対する高柳の返事は単純明快、「だって今まで生きてきたなかで一番美味しいごはんだったのがこのお店でしたから」というものだった。

 鵜野に拾われた千尋と押しかけてきた高柳。いきさつは違えど、二人とも鵜野に恩義を感じていることに変わりはない。けれどもいずれ高柳は巣立っていき、そして師匠同様に立派な料理人となっていくだろう。


 自分はどうだろうか、と千尋は思う。いつまでこの店で働くのだろうか。

 姉のようにいつかは結婚して家庭を持つことになるのだろうか。何者になっていくのだろうか。

 考えたところで今すぐ答えが出てくるはずもない。着替えもせず先に料理をよそいだした高柳をぼんやり眺めながら、頭の中を切り替えて千尋はディナー営業の準備に再び取りかかっていく。

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