幕間ー4

「出来ました宮坂さんお願いします」


 早口に言い切った高柳が、ホールとキッチンとの間にあるデシャップ台へ前菜を三皿乗せていく。今月の冷たい前菜は軽く燻した秋刀魚を使った料理だ。

 盛り付けに不備がないかさっと目を通し、問題なしと判断すればそのまま客の待つテーブルへと運ぶのがホールを預かる千尋の役割である。と同時に別のテーブルの状況をそれとなく確認し、ドリンクの減り具合にも気を配る。


 午後六時の開店直後に来店した最初の二名客はすでに魚料理まで進んでいた。

 後はメインの肉料理とデザートなのだが、コースのスタート時に注文された白ワインのフルボトルがそろそろ空こうとしている。次は赤ワインのフルかハーフか、それともグラスか。

 白ワインを注ぎ切ってオーダーを伺ってこよう、と千尋がそのテーブルへと歩きかけたとき、少し離れたエントランスから小さな鐘の音が聴こえてきた。

 ホールにいても誰かが入ってきたのがわかるよう、客同士の会話の邪魔をしないでなおかつスタッフにはちゃんと聴き取れる程度のボリュームに調節されている。


 時間はそろそろ午後七時半であり、やってきたのは予約している帯刀夫妻で間違いないだろう。

 そう思って先にそちらの対応へ向かおうとした千尋だったが、デシャップ台のところへ姿を見せた鵜野シェフが「おれが行く」と片手で制してきた。

 間断なく客席へと目配りしながら待つこと数分、帯刀夫妻を伴って鵜野がホールへとやってきた。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


 千尋の挨拶を受け、柔和な笑顔を浮かべた年配の女性が「お久しぶりです、宮坂さん」と軽く会釈をする。


「結婚式以来お姉さんともしばらくお会いしておりませんが、元気にされておりますか」


「おかげさまで。独身の私には目の毒なくらい二人で仲よくやっております」


「あらあら、羨ましいこと」


 ねえ、と傍らの男性へと振る。品のいい紳士といった風な彼は苦笑いを浮かべていた。そのやりとりだけでこの夫婦の仲のよさがわかるというものだ。

 二人を席へと案内したところで鵜野が「では先生、また後ほど」と一礼する。


「鵜野くんのお料理、私も主人も本当に楽しみにしております。今日もよろしくお願いしますね」


 帯刀早苗の言葉に、強面の鵜野もほんのわずかに相好を崩した。

 千尋が〈ポワソン・ダヴリル〉に入ってから帯刀はすでに何度もこの店を訪れている。この日のように夫婦で来ることもあれば、ランチタイムに同僚と思しき人たちと連れだってやってくることもあった。

 そのたびに鵜野は帯刀に対してひとかたならぬ深い謝意を示している。「先生、ありがとうございます」と頭を下げる様子は通り一遍のものではない。


 千尋にもおおよその察しはつく。

 帯刀と鵜野との関係を訊ねた際、返ってきたのは「中学時代の担任で、以来ずっとお世話になっている方だからな」という答えだった。

 おそらくは、いやきっと、幼なじみの突然の死によって心に深い傷を負った鵜野の支えとなってくれた人なのだろう。

 今日、九月二十二日がその少女の命日であるのはすでに千尋も知っている。わざわざこの日を選んでやってきたのが偶然であるはずもない。


 夏前の来店時だったか、千尋から彼女へ世間話の体で会話を振ったことがある。次の料理の仕上げに少し時間がかかっていたため場を持たせようとしたのだ。


「うちのシェフが羨ましいですね」


 特に何か思慮があって出てきた言葉ではなかった。


「私の場合、お世話になった先生方とは年賀状くらいでしかやりとりがありませんので。大人になった今でもこうして恩師である帯刀様と親交が続いているのは、うちのシェフが学生時代にいろいろとご迷惑をおかけしたからじゃないですか?」


 千尋としてはあくまで冗談めかした物言いのつもりだった。

 だが帯刀の受け止め方は明らかに千尋の意図とは異なっていたのだ。


「年をとると昔話がしたくなるものなんですよ」


 寂し気な笑顔を目にしたその瞬間、彼は猛烈に己を恥じた。吹けば飛ぶような自らの言葉の軽さ。事情を知っていながら無遠慮に触れてしまった愚かさ。

 自分は何て幼いのだろう、と感じることほど情けないことはそうそうない。


 千尋にとって「大人」とはほとんどイコールで鵜野を指しているといっても過言ではなかった。

 目指すべき大人がとても身近にいる、にもかかわらずいまだ場当たり的に生きてきた頃の習性が染みついて抜けてくれないのが悔しくて仕方なかった。

 年をとりさえすれば誰でも大人になれるわけではないのだ。


       ◇


 夜の住宅街は静まりかえっている。

 翌朝には契約しているゴミ収集業者がやってくるため、キャスターのある蓋つきボックスにゴミ袋を押しこみ、道路に近い場所へと置いて千尋は客用のエントランスから中へ戻ってきた。


 時刻はすでに午後十一時を回っており、客ももう誰も残っていない。帯刀夫妻が最後の客だった。

 あちこち電源のチェックをして上がるつもりの千尋だったが、トイレのドアを開けたときに背中から声を掛けられて振り返る。


「ちょっと宮坂さんからもシェフに頼んでくださいよー」


 先に上がって夜の賄いを食べていたはずの高柳がそこにいた。


「何の話だよ」


「ワインですよ、ワイン。せっかくいいやつが空けられて残ってるのに、シェフってば全然味見させてくれないんですよ」


「それ以前におまえは未成年だろうが。通勤だって原付だし、どこをどう考えれば飲ませてもらえるってなるんだか」


 だいたい自転車だって飲酒は法律で禁止されているんだぜ、と教えてやると高柳は目を丸くして「そうなんですか?」と驚いた。


「そうなの。わかったらお子様はおとなしくオレンジジュースでも飲んでろ」


「せいっ」


 掛け声とともに高柳は千尋の足へローキックを放つ。不意を突かれたため、思わず千尋は「おふっ」と呻いてしまった。


「あたしは傷つきましたよ、宮坂さん。ディナー前には大人の女性だって言ってくれたのに、その舌の根も乾かぬうちにお子様呼ばわりとは。これは立派なセクハラ事案でしょ」


「悪かったよ、謝る」


「へええ、宮坂さんは悪いと思っているときでも簡単な言葉だけですませてしまう人なんですかあ。ふーん、ほおう」


 笑いながらではあるが高柳がねちっこく絡んでくる。千尋から「誠意」を引きだしたいという魂胆が丸見えの大根芝居である。

 早々にあきらめた千尋はおとなしく両手を上げて降参の意を示した。


「わかったわかった。で、何がご希望なわけ」


「黒猫亭に行きたいです!」


 今年に入ってから市の中心部にオープンしたビストロ、黒猫亭。

 ア・ラ・カルトが中心のカジュアルな店なのだが、肉料理の旨さと気風がいい盛り付けとで瞬く間に人気店の仲間入りをはたしている。

 千尋は雑誌で黒猫亭の料理写真を見たのだが、仔羊が二段重ねになっている圧倒的なポーションにしばし絶句したほどだ。凶悪と言ってもいい。


「一人はもちろん、女友達とでもちょっと食べ切れる自信がないんですよ」


「たしかにあの量はやばいよな」


 彼氏と行けばいいだろ、という言葉をぐっと飲みこんで当たり障りのない返事をしておく。残念ながら、高柳から誰かしら男がいるような気配をこれまでに感じたことがなかったからだ。


「いいよ、行こうか。うちの定休日で都合がいい日をまた教えてくれ」


「やたっ」


 喜び勇んで高柳は思いきり指を鳴らした。


「あ、でも、恋愛感情とかそういうのがあるわけじゃないんで、妙な勘違いをされたらあたしとしても困るっていうか申し訳ないっていうか」


 彼女が言い終わるのを待たず、その眉間を千尋は無言のまま人差し指で弾いてやる。わりと強めに。


「いーたーいー」


「それはおれの心の痛みと知れ」


 大袈裟に手で額を押さえた高柳だったが、千尋の言葉を聞いてみるみるうちに表情が曇っていった。


「うそっ、じゃあやっぱりあたしに気が……ごめんなさいっ」


「んなわけねえだろ」


 今度は容赦なく頭へ拳骨を落としてやりたい衝動に駆られつつも、もう一発でこピンをお見舞いするだけに留めておく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る