幕間ー5
高柳が帰ってしまった後の〈ポワソン・ダヴリル〉は、いつにもまして息を潜めているような静寂で満たされていた。
聞こえてくるのはただ業務用冷蔵庫のモーター音ばかり。
そんな中、大柄な鵜野の姿はホールにあった。
「恋愛禁止とまでは言わねえが、あまり店内でいちゃつくんじゃねーぞー」
千尋がやってきたのを見てそんなからかいの言葉をかけてくる。右手には深い赤色の液体が入ったグラスを持って。
「ちょっとシェフ、何やってんすか。それ飲んじゃったら車を運転できなくなるでしょうに」
帯刀夫妻がオーダーした赤ワインのフルボトルは半分近く残っていた。
千尋としても持ち帰りを勧めたのだが、笑って首を横に振った帯刀早苗は「よろしければ皆さんで」と答えるばかりだった。
「おまえも飲むか」と鵜野が言う。
「いやいや。おれまでアルコール入れちゃったらシェフを送っていけなくなるじゃないですか」
「余計な気は回さんでいい」
そう言って鵜野はぐいっとワインを喉に流しこんだ。
「心配するな。店で仮眠をとって、酒が抜ける朝になったら部屋へ戻ってシャワーを浴びてくるさ」
「だったらいいんですけど」
例のオンボロ車を運転せずにすんだことで千尋としてはほっとした。
しかし明らかに普段と異なる鵜野シェフの態度に、このまま何事もなかったかのように帰るのが憚られるのも事実だ。
千尋は無言のままパントリーにある小型の冷蔵庫から辛口のジンジャーエールの小瓶を取りだし、鵜野が座っている四人掛けのテーブルへと置いた。
そして彼の斜め向かいに腰掛ける。
「はは、泡で付き合ってくれるのか」
冗談めかした口調ではあったが、その表情は心ここにあらずといったものだった。いつもの強い意志を感じさせる眼差しではない。
そんな彼に対していったい何と言葉をかけるべきか、千尋は迷う。
もしかしたら黙ったままでただ同じ時間を過ごすのが大人としての選択肢なのかもしれない。だが千尋にとってその行動は日和見と同義だ。
浅はかな軽い言葉も、リスクを恐れた日和見も、千尋は等しく嫌悪する。
「あの、ちょっといいですか。真面目な話っす」
迷いは数秒、気づけば真っ直ぐに鵜野の目を見据えて踏み込んでいた。
「何だ、藪から棒に」
怪訝そうに鵜野が「辞めたいとかそういう話か?」と口にする。
すぐに首を横に振った千尋は、景気づけのようにしてジンジャーエールを一気に飲み干し、そしてむせた。
「げほっ」
「おいおい、何やってんだ」
「んぐっ、シェフはもう、誰ともお付き合いされるつもりはないんですか」
核心に触れた、そのままの勢いで千尋は続ける。
「ずっと忘れられない人がいるのはもちろんわかったうえのことです。それでも、自分に縛りを課しているようなシェフを見ていると時々たまらない気持ちになるんですよ。どんどん身動きがとれなくなっていくようで」
自分の言葉に責任は持つつもりだった。もしも感情的に怒鳴られたならひたすら頭を下げて謝るしかない。どうにか呼吸を整えつつ鵜野からの答えを待つ。
だが当の鵜野は静かに息を吐いただけだ。
「今日、まったく同じようなことを言われたよ」
予想外なことに穏やかな笑みさえ浮かべていた。
「実は志穂のご両親と墓でお会いしてな。命日だからそういう偶然もあるかとおれは思ったんだが、そうじゃなかった。二人はおれが来るのを待っていたんだ」
千尋は彼の言葉の続きを待つ。
「もういいんじゃないか、そう言うんだよ。志穂をここまで想ってくれてありがとう、でもこれ以上浩一郎くんの人生を縛ることをあの子は決して望まないよってな。正直に話すと、それを聞いたおれは心のどこかでほっとしたんだ。いつの頃からかおれはあいつのことを忘れていくのをひどく恐れてしまうようになってしまっていた。自然じゃない、歪だ、そう感じながらも止められなかった。頑なであり続けることが目的になってしまっていたのかもしれない」
視線を宙にさ迷わせながら、己を責めるような鵜野の口ぶりだった。
腹に力を込めた千尋は真っ向から反論する。
「おれはそう思いません。むしろ自分の生き方をぶれずに貫いてきたシェフを尊敬しています。畏敬、と言うべきですかね。だけど」
「だけど、何だ」
「だってほら、シェフには幸せになってほしいじゃないですか」
あえてにっこり笑ってみせる。
「おまえなあ、そういうことを臆面もなく言うんじゃねえよまったく。聞いてるこっちが恥ずかしいだろうが」
そっぽを向いた鵜野の横顔は赤いが、それはきっとワインのせいなのだろう。
「いつかはおれも晶奈も、この店を去る日が来るでしょう。それから必死に頑張って、ちょっとくらいはは成長したんじゃないかなって思えるようになったときに〈ポワソン・ダヴリル〉へとやってくるんです。そのときは客として。懐かしさで胸がいっぱいになりながら『こんにちはー』って玄関の扉を開けるんですよ。
そしたらシェフがもう待ち構えていて『おう、元気そうだな』って。その隣には柔らかく微笑む誰かがいて。で、きっとおれは思わず『ただいま』って言ってしまいそうになるんです」
熱に浮かされたようにしゃべりながら千尋はその光景をはっきりと頭に描いていた。
「今決めました。それがおれの夢です。いつだったかシェフ言ってたでしょ、夢は叶えるもんだって」
「むちゃくちゃ言いやがる」
あきれながらも鵜野の頬はわずかに緩んでいた。
「まあ、人生どうなるかはわかんねえからな。まずは明日だ」
「トゥモロー・イズ・アナザー・デイってやつですか」
「おっ、『風と共に去りぬ』を観てるのか。意外だな」
「いやー、以前に付き合ってた子がクラシックな映画好きだったもんで」
「いい趣味だ。おまえにはもったいない」
千尋の知るなかで誰よりも時代おくれの格好いい男が、まるでベーブ・ルースのようなウインクとともに席を立った。
腕時計に目を落とせばもう日付が変わろうしている。明日がやってくるのだ。
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