4章 猫のパレード
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すでに約束の時刻を三分も過ぎていた。もう待てぬ。
「やっぱり最初の一杯はフルーツ系のビールがいいかなあ。何か女子っぽいし」
私がフライングで注文してしまっても文句はあるまい。
会社帰りと思しき客で賑わう黒猫亭、ここは大ボリュームのフランス家庭料理を売りにする一方で、ドリンクメニューはワインよりむしろビールに力を入れているようなのだ。
中でもベルギービールのラインナップは市内でも一、二を争う充実ぶりだろう。
「あ、でも、トラピストビールも捨てがたいな」
ヨーロッパの北部に位置するベルギーでは、その寒冷な気候もあって良質な葡萄を栽培するのが難しく、隣国フランスのようにワインが盛んとはならなかった。
代わりに多種多様なビールを醸造し、楽しむ文化が根付いたのだという。
トラピストビールとは現在も修道院にて醸造が行われている数少ないビールを指す。名乗るには様々な基準を満たす必要があり、そうそうお目にかかれるものではない。
なかなかの価格ではあったが、心はこちらへと傾きつつあった。
「ほら、私って修道女の清楚さと厳格さを併せ持っているようなところがあるじゃないですか。シンパシーってやつですよ」
「あれ? まだ素面のはずですよね、間宮先生」
真っ赤なベンチシートの隣に座る宮坂先生から意外に辛辣な言葉が返ってくる。
結婚しても相変わらずどこか少女のような佇まいを感じさせる彼女だが、最近では私に対して遠慮のない突っこみをすることも増えていた。
たぶん、というかきっと八子先生の影響によるものに違いない。
本来なら結婚後の姓である「仙波」で呼ぶべきなのだろうが、彼女自身の意向で職場では旧姓である「宮坂」のまま通していた。
これもまた私にとっては意外だった。
今ではそれぞれ別の学校に勤務している私たちだが、今回の集まりは八月の終わりに行われた彼女の結婚式以来の飲み会である。
披露宴を飲み会などと表現してしまうとまた八子先生にはうるさく言われるだろうけど、残念ながら今宵は不在。
代わりの参加者が扉を開けてようやく姿を見せたのは、堪え性のない私がいよいよ注文しようかというタイミングでのことだった。
あちらのお席です、と店員に案内されて彼らがやってきた。
「すみません、お待たせしてしまって」
頭を軽く下げつつ彼、宮坂千尋くんは「お姉ちゃんもごめん」と言い添える。
私と宮坂先生は困惑しゆっくりと顔を見合わせた。彼の傍らにいたのがいかにも愛想のよさそうな女の子だったからだ。
千尋くんへ声をかけた際に「もう一人連れていってもいいか」と聞かれていたが、てっきり年上美人二人との食事に気後れした彼が友達の男の子を誘うのだとばかり思いこんでしまっていた。
もしかして私はいつの間にか合コン脳になってしまっていたのか。いや、そんなバカな。そもそも合コンなど確実に千日以上はご無沙汰なのだから。
「その、あれだ。千尋くんはそちらの方といわゆるひとつのデート中だったのだろうか」
行儀悪く両肘をテーブルにつき、口元を隠すように手を組んで重々しく訊ねる。もしそうであるならば彼は優先順位を取り違えた大バカ者と言う他ない。
少しばかり棘を含んだ私の問いに答えたのは千尋くんではなく連れの女の子の方だった。
「まっさか。全然違いますよー。宮坂さんとは職場が同じなだけですので」
にこやかに一刀両断の返事をしてくれた彼女が高柳晶奈と名乗り、千尋くんとともに席につく。
そうか、彼女はポワソン・ダヴリルのもう一人の従業員だったか。
「あらあらまあまあ……。千尋くん、気を落とさないでね。いつかきっと誰かがきみの素晴らしさに気づいてくれるはずだから」
真心こめて励ましの言葉を送った私に、顔立ちの似通っている宮坂姉弟はともに苦笑いを浮かべていた。ただし千尋くんは「うるさいよ」とのコメント付きで。
「元々晶奈とはここへ連れていくって約束していたんで。まあ半ば無理やりなんだけど」
宮坂先生の結婚式を経て、私と千尋くんは会えばそれなりに親しく会話を交わせる間柄になっていた。
彼女の弟であるならそれはもう私の弟といっても過言じゃないからね。
「無理やりって人聞きの悪い。あれは宮坂さんがあたしの純情な心を弄んだのがそもそもの原因じゃないですかー」
「そっちの方がよっぽど人聞き悪いわ!」
ドリンクメニューを眺めていた千尋くんが晶奈ちゃんの頭にチョップをかます。
「晶奈の戯れ言はさておき。こいつも今日の議題とは無関係じゃないからさ」
宮坂先生と私は同時に頷く。
私たち四人が集まったのはただ美味しいものを食べ、楽しく飲むためだけではない。それらはあくまで過程なのだ。
今夜のテーマはただひとつ、ポワソン・ダヴリルの鵜野シェフと八子香織、どれだけお膳立てをしても足りなさそうなこの二人をいかにしてくっつけるか。
大仰に言うならば、これから催されるのは恋の戦略会議なのである。
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