4-2
世の中のあらゆるものには名前がある。濃淡の差は仕方ないにせよ、すべての名前に固有の物語があってほしいと私は願う。
食事が進み、脱線を繰り返しながら盛りあがる会話の中で千尋くんから〈ポワソン・ダヴリル〉という店名の由来を聞かされ、連鎖するようにいくつかの名前が頭に浮かんでくる。
たとえば私、間宮夕希。
光が消えて夜の暗闇が訪れる直前であっても決して希望を失わない、そういう人間になってほしい。まだ若かった頃の父と母は生まれたばかりの赤ちゃんに対してそう願った。大人になったその子が二人の期待に応えられているかどうか、はなはだ心許ないけれど。
ここ黒猫亭の名前についてもいくらか聞き及んでいる。
八子先生と二人で最初に訪れたとき、カウンター席で例によって長居した私たちがその夜の最後の客だった。生意気そうでありながら愛らしくデフォルメされた黒猫がこの店のいわばマスコットである。
そのイラストが描かれているエプロンをつけたオーナーシェフが、会計をしてくれたときに私は何気なく訊ねてみたのだ。
「黒猫亭って店名、素敵ですね。猫を飼われていらっしゃるんですか」
不躾かもしれなかったが、いかにも人の好さそうな店主はにこにこと「子供の頃、全身が真っ黒な猫を飼っていたんです」と答えてくれた。
「フランス語で『黒』の意味を持つノワールと名づけたのはわたしの姉でしたが、その名前が本当によく似合う、とても綺麗な猫でした」
私たちにお釣りを返しながら彼が言葉を続ける。
「この店をオープンする半年前に老衰であの子が死んだとき、わたしは迷わず黒猫亭という名前にしようと決めたんです」
小学生の頃、ライオンによく似た毛並みの子猫を拾いレオと呼んで可愛がっていた私には、彼の気持ちがとてもよく理解できた。気まぐれな猫はこうやって人間に愛されてきたのだ。
ただし、猫の歴史は受難の歴史でもあった。
カッテンストゥッツというベルギーの祭りがある。猫祭り、と言った方がおそらく認知度は高いだろう。大勢の人たちが猫などの仮装をし、街を練り歩くたいそう楽しげなイベントなのだが、歴史を遡っていけばその由来は仄暗い。
年に一度の「猫の水曜日」と呼ばれる日に、鐘楼から猫を投げ落として殺していたのがそもそもの始まりなのだから。
昔の人たちは何て無知で野蛮で残酷な、と大抵の人は眉をひそめて非難めいた感情を抱くに違いない。
けれども私にしてみれば今も昔もそう変わりはなかった。なぜなら、まだ小学校に上がったばかりの愛らしい私が同じく愛らしいレオを拾ったのは、ゴミを燃やすため校庭の隅に設置されていた焼却炉の中だったからだ。
当時はまだ焼却炉も現役で稼働しており、日直だった小学一年生の私は級友とともに大きなゴミ箱を引きずりながら運動場を横切ってやってきた。
いつもなら重い鉄製の扉が開きっ放しになっているのだが、このときは定められた掃除時間外だったためか閉められており、チビッコ二人程度の力ではどうにもならない。
「ぼく先生呼んでくる!」とクラスメートの男子が校舎へ走っていき、私はぽつねんと一人取り残された形になった。
しゃがみこんで呆けたように地面を眺めていた私の耳に、か細い鳴き声が聞こえてきたのはそのときだった。
汚れるのも構わず慌てて焼却炉へと耳を押しあてた。かすかにではあったがたしかに猫らしき鳴き声がする。ちー、ちーという甲高くて弱々しい声。
私の中で何かが弾けた。気が狂ったように扉の取っ手をめちゃくちゃに動かしはじめた。反動をつけようと焼却炉を蹴ってもみた。
閉じこめられている猫が怖がるかもしれなかったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。このまま火がついたらと思うととてもじゃないがじっとなどしていられなかった。
よほど錯乱していたのだろう、クラスの担任が駆けつけてまず最初にやったのは暴れる私を抑えることだった。
「間宮さん、落ち着きなさい。いったいどうした」
白髪交じりで父よりだいぶ年上だった先生の声を聞いて気持ちが緩んだのか、私はわっと泣きだしてしまった。
泣きながら焼却炉を指差して必死に説明をし続けた。
このときの先生の表情はきっと一生忘れられない。大人なのにこんなに悲しそうな顔をするんだ、と私を泣き止ませるほどの衝撃があったのだ。
先生はすぐに扉を開け、身を乗りだし両腕を中へと突っこんで段ボール箱を取りだした。その箱を地面へそっと下ろし、雑に貼られたガムテープを剥がす。
そこに入れられていたのはやはり子猫だった。それもほんの小さな。
誰か家で飼える子がいないか聞いてみよう、と優しい声音で言った先生に対して私は激しく首を横に振って拒絶した。だってもう、私の家で一緒に暮らすに決まっている。
あれほど強情だったのはもしかしたら後にも先にもなかったかもしれない。
結局、先生とうちの親とが話し合って、子猫が間宮家に引きとられることはその日のうちに決まった。
「どことなくライオンに似ているからレオでいいじゃないか」
帰宅して子猫と対面した父の安直なネーミングを私はとても気に入った。レオ、レオと用もなく呼んで始終構っていたのだがなかなか懐いてくれない。
そのうちにさすがの私もレオとの適切な距離感を学んでいく。
くっつきすぎず、離れすぎず。今ならそれが互いを尊重することだとわかる。たとえ相手が人間であっても同じだ。
「あー、そういや八子先生って猫っぽいんだよね」
流れを考慮していない私の発言があまりに唐突だったらしく、千尋くんなんかはあからさまに怪訝そうな顔をしてこっちを見てくる。
「間宮さん、まさか酔った? んなわけないか。つーかちゃんと会話に乗ってる?」
「モチのロンよ」
「うわっ、古っ! 年の差を感じるわあ……」
これには温厚な私もお怒りである。
「ちょっと千尋くん! そういうことは思っても口に出しちゃダメなやつでしょうが!」
「うん、今のは千尋が悪い」
「そもそも宮坂さんってナチュラルにデリカシーがないタイプですよねー」
ありがたいことに宮坂先生や晶奈ちゃんからも援護射撃をもらう。
「え、待って。何でおれが責められてんの?」
きょとんとしている千尋くんの顔がまたおかしく、私たち三人は大笑いしてしまった。
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