1-4
試合は終盤に差しかかり、スコアボードを見れば勝敗の行方はほぼ決したも同然だった。
そのせいか、席を立って腕時計を見ながら家路へと急ぐ観客の姿もちらほら目につきだしているが、私たちはまだじっと座ったままだ。
重い空気に呑まれて立つことができないでいた。
会話もほとんどなく、互いに目を合わせようともしない。
意を決して口にした私の言葉が、曖昧なままだった二人の関係にはっきりとした輪郭を与えてしまった。
もちろんそれを望んでのことではある。とはいえ、以後一時間以上にも渡って彼に対し大人たる振る舞いができていないあたり、私にも少なくない衝撃があったのだとようやく理解する。
あのとき、彼が見せた姿はまだ私の知らない島ノ内くんだった。ひどく動揺し、どうにか落ち着かせようと口元に手をやって静かに長く息を吐きだしていた。
「……何だよ、それ」
ややあってようやく島ノ内くんから反応が返ってきた。声が震えているのはショックだったからか、それとも身勝手な私への怒りからなのか。
「もう自分の学校とは関係なくなったからはいさよなら、ってこと?」
このあたりは想定内の問いである。
「それは違う。島ノ内くん、困難を乗り越えてきた君はもう一人でやっていけるはずよ。いつまでも私がひっついていたって邪魔なだけ。私の役割はもう終わったの」
「そんなことない!」
球場内のざわめきとはまるで異質な、反射的に発せられた否定の叫びが二人の周りの空気を切り裂く。
だが同時に彼の表情はひどく弱々しい。
「何で急にそういうことを言うの? あれだけお節介を焼いてきたのに」
「急、か。そう捉えられても仕方がないけど、これはずっと考えてきたことなの。いつか決断しなければならなかったのよ」
「そんな……」
「これから君には高校という新しい場所が待っている。もちろんいいことも悪いことも両方あるだろうけど、ここから先は一人で歩いていかなくちゃ」
穏やかに諭すような私の言葉に、島ノ内くんは震える声で「そんなの勝手すぎるよ」と呟いた。
握り拳をつくり、唾をごくりと飲みこんだために彼の喉仏が上下に動く。
来る。直感的にわたしの体は強ばった。
「ぼく、先生がいてくれなきゃだめなんだよ。ずっと先生にそばにいてほしいんだ。先生のことが一人の女の人として本当に好きなんだ!」
私だって二十代半ばだし、これまでの人生でそれなりに男の人と交際もしてきた。けれども今にも泣きだしそうな顔で、それでいて正面から真っ直ぐにぶつけてくる告白は生まれて初めての経験だった。
思いあがっているようだが、彼から寄せられる気持ちを以前から察してはいた。それが恋愛感情と呼ぶべきものだということを。
だからってどうしようもないではないか。彼は生徒で、私は教師だ。
別に世間体を慮ってのつもりはない。
同様の立場で恋愛関係に陥る人たちももちろんいるだろうし、それと気づかれないよう上手く立ち回れるならありだと思っている。
ただ、これは教師という職を選んだ私個人の意地みたいなものなのだ。
彼に悟られないよう呼吸を整え、ゆっくりと、丁寧に言葉を口に乗せていく。
「君はさ、私にとって誰よりも特別な生徒なんだよ」
じゃあ、と言いかけた島ノ内くんを素早く手で制した。
「でも、特別な男の人じゃない。どこまでいっても君は私の生徒なの」
視線を逸らすことなく、真正面から彼を見据えて残酷かつ誠実な返事を告げた。
彼の目はみるみるうちに潤んでいく。それを隠そうとしてか、顔を伏せてしまってそれっきり口を閉ざしてしまった。
以降お互いに黙りこくり、気づけば試合は間もなくゲームセットを迎えようとしている。
大人であることの責任を感じながらも私は彼に踏みこむことができずにいた。
何を言っても薄っぺらい自己弁護になってしまいそうな気がして、傷つけた側の者が口にしてもいい言葉を見つけられなかったのだ。
でも、こんな形で終わらせたかったわけじゃない。
早く何とかしないといけないのに焦りばかりが募っていく。刻々と時間が過ぎ、周りにはどんどん空席が目立つようになってきた。
頭の中をぐるぐると役に立ちそうもない言葉たちが渦巻いているが、それでもいいからとにかくいつもみたいに話しかけよう。
ようやくそう決めたときのことだった。
「帰ろうか、先生」
とても穏やかな口ぶりで島ノ内くんの方から声をかけてきたのだ。
ゆるゆると帰り支度を終えた私たちは二人並んで出口へと歩いていく。自転車でやってきている彼を見送るため、まず駐輪場へというのがこれまでの恒例である。だから今回も足は自然に駐輪場へと向かっていた。
その途上、いつもの世間話とでもいうように彼が口を開いた。
「ねえ、先生。ひとつ聞いてもいいかな」
努めて明るく「んー?」と受ける。
「もし、ぼくが十年後も変わらず先生のことが好きだったら?」
そっと島ノ内くんの横顔を窺うが、その表情に強い感情の色はない。
だから私も飾らず配慮しすぎず、率直に答えを返す。
「ぐっとくるだろうなあ、そりゃ」
それから彼の目を見てにっこりと笑みを浮かべた。
「でもさ、私なんかにそこまでの価値はないよ。ずっと憧れてもらえるような高値の花じゃなし、道端にひっそりと咲いてる地味な草花程度のもんだしね。俗に言う十人並みってやつだ」
自虐的とも受け取られかねない私の返事に、島ノ内くんの顔が苦笑いに変わる。
「そんなことないよ。先生より好きになれる人がいるのかこの先いるのかどうか、とてもじゃないけどぼくには自信がないな」
半地下にある駐輪場へとやってきた。
まだ残っている二輪車の数はかなり減っており、彼がずっと愛用しているスポーツタイプの青い自転車はすぐに見つけられた。
剥きだしの電球が頭上でちらついていた。ダイヤル式の鍵を開け、ドロップハンドルを握った彼はもういつでもここから去ることができる。
もしかして、本当にこれが彼との最後の時間なのか。
今になってようやく自分がとった行動の意味を心の底から理解し、手放そうとしているものへどれほどの愛情を持っていたのかを思い知った。
そんな私の胸に、島ノ内くんの声が柔らかく響く。
「ぼくにとって、先生はずっと特別な女の人であり続けるよ」
思わず私はよろめくように前に出ようとしてしまう。
「島ノ内くん……」
「それ以上近づかないで!」
あまりに鋭い彼からの拒絶の言葉に、踏みだしかけた私の足は凍りついたように止まってしまった。
「だめだよ、先生。あんまり近くに来られたらもう、聞き分けのいいぼくでいられなくなる」
そう言って彼はとても寂しそうに笑った。
「今だって必死に自分を抑えているんだよ? 指でその柔らかな髪に触れたいって思う。どこにも離れて行けないようにぎゅっと抱き締めたいって思う。先生の唇にキスしたいって思う」
でもね、と彼が続ける。
「心が死んでいたようなぼくを生き返らせてくれた先生にはどれだけ感謝してもし足りないんだ。そんな先生を苦しめるだなんて、それだけは絶対に、死んでもいやだ。だってぼくが好きになったのはだらしなくてお酒に目がなくて、愚痴っぽいうえにお調子者で、お節介でデリカシーもなくて、ついでに誰よりも優しい人だからね。悲しい顔なんてさせたくないし、似合わない。いつだって笑っていてほしい」
泣くな。決して泣くな。
胸を衝かれたからといってここで私が泣いてどうする。それでは立場が逆だ。
「だからぼくは、最後まで先生にとって特別な生徒であることを選ぶよ」
そう口にした彼の顔は、これまでのどんなときよりも大人びてみえた。
「さよなら、間宮先生」
さよなら、と返事した私はちゃんと笑顔になっていただろうか。
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