1-5

 重い体を引きずるようにして一人歩く。

 いつの間にかスマホにメールの着信があったようだ。差出人は八子先生。

 島ノ内くんには「八子先生が迎えに来てくれるから」などと説明していたが、本当はそんな約束などしていない。


 アルコールの助けを借りてでなければ大切な生徒を突き放せなかったダメな大人ゆえ、元から帰りは夜風にあたりながら二時間かけて家まで歩くつもりだった。電車やタクシーを使うよりそういう気分だったのだ。

 なのに彼女は待ってくれていた。何も事情は伝えていなかったのに。


「球場近く、駅反対方面の国道にて停車中」


 シンプルな文面がいかにも八子先生らしい。

 特に探すほどのこともなく、道路脇に寄せてハザードランプを点灯させたそれらしき車が視界に入ってきた。

 見慣れたコンパクトカーのドアにもたれかかり、腕組みをしている長身の女性がこちらに気づく。

 彼女はそのままの姿勢で右手の人差し指と中指だけを揃えて上げた。

 後輩ながらこういう仕草が様になる女なのだ、八子香織は。


「よっ」


 私も敬礼のポーズで明るく応じる。

 けれども彼女はあからさまに大きなため息をつきやがった。


「まったく。わかりやすすぎるんですよ、間宮先生って」


 近づいてきて腰に手をあてながら彼女が言った。


「強がりもいいですけど、今くらい泣いたってかまわないでしょうに」


 すべて見透かしたような八子先生の言葉に、これまで必死に耐えてくれていた私の涙腺はあっけないほどに決壊してしまった。


「やごぜんぜぇー」


 涙声になりながら思わず彼女にすがりついてしまう。


「ちょっと、セールで買ったばかりのスプリングコートが汚れるじゃないですか」


 そんな憎まれ口を叩きながらも声色はひどく優しい。

 先輩と後輩の関係が逆転したかのように、八子先生は胸に顔を埋めて泣く私をそっと抱いてくれた。


「島ノ内くんをちゃんと卒業させてあげたんですね」


「うん……」


「彼、将来間違いなく格好いい男性になりますよ?」


「うん……」


「そんな男の人が間宮先生を好きになってくれるなんて、もう金輪際ないですよ?」


「うん……うん?」


「残念な女に訪れた人生最後の大チャンスを逃したとあっては仕方ありません、もうお酒とともに生きるしかないですね」


「おい」


 相変わらず好き放題に言ってくれる。でも今は八子先生のそんな遠慮のなさがとてもありがたい。

 彼女のおかげというかせいというか、どうにか落ち着きを取り戻した私は抱きついているのが照れくさくなったため体を離す。そのときにコートについた鼻水が伸びて吊り橋のようになってしまったのは間宮夕希一生の不覚。


 てっきり「クリーニング代!」などとからかわれるのかと思いきや、何ごともなかったように八子先生はハンカチを取りだし拭きとっていた。

 この態度の使いわけといい事情を察して迎えに来たことといい、私なんかよりよほど大人である。

 恋愛まで届かなかった島ノ内くんと私の関係も、彼女の慧眼にはすっかりお見通しだったというわけだ。


「ほんとに不器用なんだから。でも、そんな間宮先生だからこそ島ノ内くんも心を開いたんでしょう。あなたの決断をわたしは支持しますし、誇りに思います」


 やられっぱなしも癪に障るので、せめて揚げ足くらいはとってやろう。


「それ彼にも言ったでしょ。使い回しかよ」


「あら、バレました?」


 クールな表情のまま舌をぺろっと出した彼女は、車のキーで助手席を指し示す。


「じゃあそろそろ乗ってください。今夜はとことんいきますから」


 へ、と間の抜けた声を出した私を「は?」ときつい視線で睨みつけてくる。実際問題、これじゃどっちが先輩だかわかりゃしない。


「いやいや間宮先生、まさかこのまま帰るつもりじゃないでしょうね。そのつもりでワインも日本酒も焼酎も買ってきてるんですよ?」


 迷う必要はなかった。家に帰ったらどのみち一人で缶ビールでも飲むつもりだったのだ。だったら気心の知れた八子先生と酔いつぶれるほうがよほどいい。


「やるか」


「やりましょう」


 お互いに力強く頷きあい、それぞれ車に乗りこんだ。

 勢いよく助手席のドアを閉めたせいでバタン、という大きな音がした。それはまさしく私の人生において何かを区切る音だった。

 隣で八子先生が「もう、静かに閉めてくださいよ」と文句を言っているが、すぐに心配そうな調子へと変わっていく。


「間宮先生……」


 自分でも気づかないうちにまた私は泣きだしていた。それはもうぼろぼろと、ぼろぼろと。

 正しかったのか、間違っていたのか。そんな問いには意味がない。

 束の間、翼を休めた鳥は木の枝を離れて再び空へと飛びたっていく、そういうものだ。だから私は納得している。できている。

 それでも堰を切ったように涙が体の奥からどんどん溢れてくる。

 おかしいな、ちゃんと納得しているのにな。そう思えば思うほど止められなくなっていく。

 とうとうしゃくりあげだした私の震える肩を、八子先生が軋むくらいに強く抱いた。


「泣けばいいんです。我慢しなくていいんです」


 本当に、どこまでも私は彼女に甘えっぱなしだ。

 ならいっそすべての涙を今夜流し尽くしてやろう。

 その分、これから先はずっと笑顔で生きていこう。

 いつだって笑っていてほしい、そう島ノ内くんが言っていたように。

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