2章 チョコレートの適温
2-1
冬ほど寝床の温かさが名残惜しくて離れられない時期もないが、心を鬼にしてしばしの別れを告げる。
私は一日のうちで朝がいちばん嫌いだ。
理由は言うまでもない、そこから仕事漬けの長い一日が始まるからである。気分を滅入らせるだけの朝を爽やかなどと形容できるのはいったいどういう類の人間なのだろうか、そのメンタルが羨ましい。
「うー、しかし今朝も冷えるねえ」
そうぼやきながらパジャマ姿で眠気覚ましのコーヒーを淹れている私に、洗面所ですでに出勤前の化粧を終えてきたらしき母が「ちょっと夕希、冬とはいえもうちょっと早起きしなさいよ」と小言を投げかけてきた。ごもっとも。
面倒くさいからトーストだけでいいや、と食パンを一枚焼きながらテレビのスイッチを入れる。朝のニュースなんてスマホで配信されている分を確認すれば事足りるのだが、いまだに何となく習慣になっているのだ。
皿とミックスベリーのジャムを用意し、牛乳を多めに注いだコーヒーに口をつけた次の瞬間、予期せぬ出来事に私は盛大に吹きだしてしまった。
テレビ画面に「メジャーリーグ挑戦へ」と大きく映しだされていたのが、かつて六年連続でホームラン王を獲得した強打者のプロ野球選手、桜井虎太郎だったからだ。
しかし桜井はすでに四十二歳、選手生活の最晩年に差し掛かっている。
成績は見る影もなく下降し、当然ながら出番も大幅に減少。所属球団との契約交渉が難航しているとの報道もしばらく続いていたが、よもやこのタイミングで海を渡る決断をするとは。
いろいろな国からアメリカン・ドリームを夢見て集まった、息子みたいな年齢の選手たちと競争できるのを楽しみにしている。画面の中の桜井はそう言って不敵な笑みを浮かべていた。
「うっそでしょ……」
かつて父が彼の熱心なファンだった。彼が所属していた球団がビジターとしてこちらにやってくるとき、何度もスタジアムに連れていってくれたのをよく覚えている。ホームランを打つ場面だって何度も見た。
もう十年以上も前の話になるだろうか。
「早朝から繰り返し流れてるけど、もういい年のおっさんなのにすごいわね。その人のサイン、たしかまだうちにあったんじゃない?」
そんなことよりとりあえずあんたはテーブルを拭きなさい、とキッチンから母は私目掛けてダスターを放り投げてくる。私のがさつな部分はきっとこの母譲りに違いなかった。
手は動かしつつ、父とともに見た時より随分と皺が増えて老けてしまった桜井の姿を呆然と眺めていたせいで、気づけば年季の入ったトースターの中のパンは少し焦げてしまっていた。
けれども着替えも化粧も終え、車のエンジンを掛ける頃には頭の中から彼のことはすっかり消えており、代わりに学年末テストの問題作成をどうするかが占めていたのだ。
日々はそうやってどんどん後ろへと過ぎ去っていく。流されるようについていくのが精いっぱいの早さで。
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