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「これ、どうぞ」


 職員室に着いてまず目にしたのは、同僚の教師がにこやかに男性陣へチョコレートを配って回っている姿だった。国語教師の宮坂、たしか下の名前は雫だったか。

 今日はまだ二月十二日、バレンタイン・デイにはちと早い。しかし今年のバレンタインは日曜日である。二日前の今日に義務的な行事としてすませておくのは一応理屈に合っている。


 が、私にはその発想がまるでなかった。これが女子力の差ってやつか。

 正直に言えば「スルーできなかったものかね」という気持ちも少なからずある。

 私の場合だと週明けに「あー、バレンタインね。日曜だったしすっかり忘れてました」と言えば「まあ間宮先生だし」と見逃してくれたことだろう。

 それはそれで納得いかないが。


 宮坂先生は私より一年早く教職についているが、大学へ入るときに浪人しているため年齢としては二歳上となる。教職員のみならず、生徒たちにも丁寧で柔らかい物腰で接するため誰からも受けのいい先生だ。いまだに年配の先生方から雑な言葉遣いを訂正されることが多い私とはえらい違いである。


 そういうのもあってかどうか、年が近いにも関わらず彼女とは単なる同僚関係でしかなかった。

 きっと向こうも一定の距離を置きたいと考えているだろうし、私にもそのあたりの感覚がようやくつかめてきた。仕事場は友人を作る場所ではないのだ。

 だから、たった一人であっても友人と呼べる相手と巡りあえたことは私にとってとても幸運なことだったのだと今さらながら思う。


「おはようございます」


 いつものように淡々とした調子で挨拶しながら職員室へと入ってきた八子先生、彼女こそ当の人物だ。もちろん、そんな照れくさいことを面と向かって口にしたりはしない。まかり間違って言ってしまおうものなら恥ずかしすぎて死ねる。


「おはようございます、間宮先生」


「おはようさーん」


 ひらひらと手を振りつつ、二つ隣の席に座った彼女と挨拶を交わす。幸いにも間の席の主、学年主任の楠間先生はまだやってきていない。


「ところであれ、宮坂先生はいったい何を」


「何ってあんた、明後日がバレンタインだからチョコ配ってんでしょ」


「ああ、言われてみれば」


 得心がいったとばかりに八子先生が頷いた。

 クールさをこれでもかと感じさせはするが、まぎれもなく美人の部類に彼女は属する。後輩ではあるものの、いまだにのんきな学生っぽく見られることも多い私よりよほど大人の女性然としている。少なくとも外見は。

 だからこそ、素質を活かし切れないもどかしさを彼女に感じるのだ。


「八子先生……もうちょっと世間とともに生きようよ。浮世離れしすぎ」


 後輩を思いやっての私の言葉を、彼女は「ふ」と鼻で笑いやがった。


「わたしだって想いを寄せる男性でもいれば、こういうイベントに乗っかるのもやぶさかではありません。ですがそうではないでしょう。必要以上に騒ぎすぎです」


 それに、と八子先生は続ける。


「誰にでもいい顔をする人間をわたしは好きになれません」


 彼女の冷ややかな視線の先にはきっと宮坂先生がいるのだろう。

 なかなかに苛烈な物言いをする後輩に対し、やはりここは懐の深い先輩らしさを示しておかねば。


「まあそう言いなさんな。別に悪いことじゃないんだし」


「もちろん悪くはありません。ただ気に入らないってだけの話です」


「こら。あんたの発想は昔ながらのヤンキーかい」


 職員室の片隅で繰り広げられている不毛な会話をよそに、宮坂先生から結構高そうな包装のチョコレートを受け取った男性教師たちはわいわいと盛りあがっている、ように見える。まあ、さすがにこれは少し僻みっぽいかもしれない。

 そこへまた新たな登場人物が現れた。いつも通りに整髪料をふんだんに使って髪をびちっと流している楠間先生だ。


「おはようございます、楠間先生。先生もどうぞお召し上がりください」


「おっと、ヴァーレンタインのチョッコレイトですな! いやあ、宮坂先生のように綺麗な方からもらったと知ったら家内もやきもちを焼くんじゃなかろうか。これはいけません、家庭不和の元ですぞ?」


 あんたは私と同じ社会科担当だろうに、何だそのエセ流暢な発音は。年甲斐もなくご機嫌なにやけた表情も見るに堪えない。

 一度ウィキペディアで義理チョコの意味を調べてくるがいい。

 私の視界の左端にはあからさまなほどに苦虫を噛み潰したような横顔が覗いている。うん、気持ちは本当によくわかるが抑えて八子香織。

 今にもスキップしだしそうな勢いで、楠間先生がようやくこちらの席へとやってきた。


「やあ皆さん、おはようございます」


 おはざーす、と適当に挨拶を返した私たちに対し、あろうことかやつは「もしかしてお二方もご用意されているのかな?」などと抜かしやがった。おいおい、勘弁してくれ。

 この場面をどう切り抜けるか、ああでもないこうでもないと思案していたせいで結局私は出遅れることとなる。


「そういうのって必要でしょうか」


 迷う素振りもなく先に八子先生がはっきりと言い切ってしまったのだ。


「バレンタイン・デイにチョコレートをもらった男性の先生方は、またひと月後にお返しをしなければいけないわけですよね。それって本来であれば必要のない、無駄な出費だと思いませんか」


 お互いに、と彼女は透き通るような声で言い添える。

 さすがにこれはよくない。八子先生の言い分はもちろんわかるが、この場で爆弾を投下するような行動には誰も賛同してくれないだろう。


 案の定、職員室には一気に潮が引いたような居心地の悪い静寂が訪れてしまった。宮坂先生もどう反応していいのかわからないらしく、紙袋を手に提げたままその場から動けないでいる。

 とっさに私は立ち上がっていた。


「まーた八子先生はそういうことを言うー。大丈夫ですよ皆さま、不肖この間宮が彼女の分まで真心のこもった甘ーいチョコレートをご用意しておりますので! もちろん宮坂先生にだって負けませんよお?」


 おどけながら職員室中に響くよう声を張りあげた私は、おもむろに机のいちばん下の引き出しから大きな菓子袋を取りだした。

 一口サイズのチョコレートがぎっしり詰めこまれた、お徳用と銘打たれた巨大サイズの袋である。近所のスーパーで安売りされていたものだが、何せこれのせいで他の仕事用ファイルなどがきちんとしまえないくらいの大きさなのだ。おまけにまだ昨日に開けたばかりときた。

 一日に二、三個ずつ食べていくのが甘党である私のささやかな楽しみだったのだが、背に腹は代えられない。可愛い後輩のためだ。


「さあ、お好きなだけどうぞ! つかみ放題!」


 だが私のテンションとは裏腹に、周囲の教師陣はどうやら呆気にとられているようだった。


「お好きなだけと言われてもねえ」


 皮肉気な笑いを浮かべて楠間先生が口にする。


「間宮先生のは何というか、ありがたみに欠けますよ」


 明らかな揶揄に他の男性陣も同調しだした。


「昔よくいた、バナナの叩き売り。あれに似とるな」


「自分はお祭りの露店を思い出しました」


「テキ屋ですか。じゃあ私は深夜のテレビショッピングで」


 ちょっとおっさん方、趣旨が変わってやしませんかねえ。どの例えがいちばん近いかを競うゲームじゃねえんだよ。

 まあいい、これで目的は達した。流れを逃してはならない。

 ここぞとばかりにしおらしい表情を作り、バレンタイン・デイの早すぎる終わりを演出しにかかる。


「そうでしたか……残念です。やはり男性の方々はそれほどたくさんお菓子はいらないのですね。しかしこの間宮、ほとばしる真心は受け取っていただけたと確信しております」


 はい嘘、もう丸ごと嘘。うちは父が甘党、母が左党なのだ。そのどちらの資質も平等に受け継いだ私はまさにハイブリッドな存在といって差し支えないだろう。

 これでもう幕は引かれたに等しいはずだ。

 九回を三人でぴしゃりと締める、自分をそんな鉄板クローザーになぞらえて悦に入っていたまさにそのとき、冷や水をぶっかけてくる柔らかい声がした。


「なら、そのチョコレートはこちらで預かりましょうか。甘いものは疲れた体をリフレッシュさせると言いますから黙認しておりましたが、さすがに量が、ね」


「た、帯刀教頭先生……」


 影も髪も薄い校長より力があると誰もが認める実力者、帯刀早苗。

 小柄でいつも柔和な笑顔を浮かべているが、剣道の有段者でもある彼女のことを私は心の中でこっそり女帝と呼んでいる。

 実際、帯刀教頭から受ける穏やかな叱責には静かな迫力があり、とてもじゃないが軽い言い逃れなどできるものではない。いつでも真っ裸にされて対峙しているような鋭い空気をその身にまとっていた。

 だが、私が教員になってから最も尊敬しているのはこの人だとも断言できる。筋の通らないことは絶対に言わない人なのだ。


「もちろん独り占めはしませんよ。最近は女性同士で受け渡すのもありなのでしょう? 義理チョコだとか友チョコだとか、いろいろ呼び名もあるそうですし」


 ぽふん、と帯刀教頭は両手を合わせた。


「さて、そろそろ職員会議の始まりですね」


 その言葉が終わった瞬間、スピーカーからチャイムの音が響いてきた。

 安倍晴明だとか蘆屋道満だとか、あの手の呪術師が祖先にいるのではと密かに私はにらんでいる。

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