2-3

 首や肩の筋肉がすっかり強張ってしまっていた。

 んー、と座ったまま両腕を上げて大きく伸びをする。生徒たちの下校時刻はとっくに過ぎており、窓の外の冬空もすでに陽が沈みかかって薄暗くなっていた。


 任されていた一年生の学年末テストの問題作成はあらかた終わった。

 高校であれば独立している科目である歴史と地理、それぞれをバランスよく配分しながら体系的な知識の確認となるような試験問題としなさい、そう学年主任の楠間先生から言い含められている。


 加えて学年末ということもあり、三学期に学習した内容だけでなくいくらかは一・二学期の重要ポイントも押さえておかなければならない。つまり、なかなかに細やかな神経を要求される仕事だったわけだ。

 提出期限は月曜朝となっている。この週末の空いた時間を使ってどこかに抜けがないか、一通りチェックするつもりでいた。

 バレンタイン? 何だそれ。


 目処がたったとなれば長居は無用。あっという間に帰り支度を整え、まだ残っている先生方に「お先に失礼しまーす」と軽く一礼しながら職員室を出た。

 空調設備のある職員室に比べるとやはり廊下は冷える。

 とはいえ、普段はジャケットですごしているだけにメルトン生地のコートを羽織っているとまったく寒さは感じない。


「待ってください、間宮先生」


 行儀悪くポケットに手を突っこんで歩いている私の背中に、女性らしき声がかけられる。

 誰かしらん、と振り返ってみれば、意外にもそこに立っていたのは少し息切れしている宮坂先生だった。

 慌ててポケットから手を出しながらも、私は『レオン』のゲイリー・オールドマンのごとくにやりと笑う。


「宮坂せんせーい、廊下は走っちゃいけませんよ?」


「あ、や、すみません!」


 私の悪ふざけをどうやら本気で受け取ったらしく、彼女は焦ったように頭を勢いよく下げた。うーん、真面目な人だ。


「冗談ですよう。それにしても私に何か急なお話でも? えらく慌てていらっしゃるご様子ですけど」


 ほとんど接点がないといっていい宮坂先生が、いったい私にどのような用件があるのだろうか。まずはそこが気になった。


「あ、いえ、大したことではないのですが」


 そう言いながら彼女は鞄の中から包装された小さな箱を取りだす。今朝、男性陣に配っていたのと同じものだ。


「間宮先生に渡しそびれていたものですから」


 これにはさすがに驚いた。彼女、女性陣にもこうしてバレンタインのチョコをあげて回っているのか。


「私に、ですか。ありがとうございます。それにしてもマメですねえ……」


 受け取りながらつい本音がこぼれてしまう。本当、私には到底考えられないマメさだ。

 だが宮坂先生から返ってきた反応は予想外のものだった。


「そう、なんでしょうか。自分ではよくわからなくて」


 上手くいなすわけでも、鼻にかけるわけでもない。もちろん天然風でもない。素直な心情の吐露、と言いたくなるような嫌味のなさ。もしかしたら私は彼女の見立てを誤っていたのかもしれないな、とこのとき感じた。

 自然と二人並んで教職員用の昇降口へと歩いていく形となる。


 差し障りのない会話を交わしながら、少しずつ私は宮坂先生という人を知っていく。私と同じく実家住まいであること、雑種犬を飼っており彼女がその犬をとても可愛がっていること、弟がもうすぐ大学を卒業するのだということ。

 あと、残念ながら恋人もいるのだそうだ。

 これは内緒ですよ、と微笑む彼女は私の目にも魅力的に映った。そりゃ私と違ってちゃんと彼氏もできるはずだわ。


 いつの間にか音楽室から聴こえていた吹奏楽部の音も止んでいた。部活動などで校内に残っている生徒もそろそろ下校するのだろう。

 一階に降りてきた私たちは、きゃっきゃとはしゃぎながら帰路につこうとしている生徒たちのグループに遭遇した。顔触れからすると書道部の子たちのようだ。

 さようなら、と挨拶をする宮坂先生に対しみんな礼儀よく「さようならー」と声を揃える。ただ、その内の一人は思いっきり私を指差して言った。


「あ、まみりんもいるー。まみりん先生さよーならー」


 考えたくはなかったが、裏では間宮林蔵とあだ名されているのかもしれない。


「誰がまみりんか。もう暗いから気をつけて帰んなさいよー」


 去年、私がクラス担任として受け持っていた子だ。部での居場所がない、という相談をその子から受けたときに「どうしてもやりたいことでないのなら他の部へ転部したっていいじゃない」と勧めたのを記憶している。


 無責任な発言だったかと悩みもしたが、結果的に彼女からはとても感謝された。

 担任でなくなって一年近く経つ今でも親しく接してくれるのは率直にうれしいことだ。教師という職を選んでよかったと思える瞬間でもある。

 そんな私の内心を見透かしたかのように宮坂先生が言った。


「間宮先生は生徒たちからとても慕われていますよね」


 私なんぞにおべっかでもないだろうが、さすがに「はい!」とは答えづらい。

 無難な返事を選ばなければ。


「いや、それはむしろ宮坂先生の方でしょう。私の場合、どちらかというと軽く見られているだけのような気がしますし」


「そんなことはありません!」


 思いのほか強い口調で彼女から反論が返ってきた。


「わたしはずっと、間宮先生を羨ましく思っていました。あなたのように自然に振る舞い、それでいて生徒たちから共感を得られるような人こそが教師に向いているのだ、そう感じていたのです」


 買い被りすぎですよ、と即座に否定したが、宮坂先生は静かに首を横に振るだけで取りあってはくれない。


「自分が好感度の高い教員であると言われているのはわたしも承知しています。ですがそれは人工的なものというか、紛いものというか。どうしても自然じゃないんですよ。そのことは誰よりわたしがいちばんわかっているんです」


 下駄箱へとやってきても宮坂先生は堰を切ったように話し続けた。

 校内用であるナースシューズからローヒールのパンプスに履き替えながら、黙って私は彼女の言葉に耳を傾けている。


「学生時代、それこそ大学を卒業するまでわたしは社交性に欠ける地味な女として周囲から扱われてきました。中学や高校では陰キャと呼ばれていましたから」


 陰キャ。その手のレッテル貼りが私は心の底から好きになれない。

 もしも自分がそのような陰口を叩かれていたならば、言ったやつらを全員突き止めて首根っこつかんで無理やり土下座で詫びを入れさせるに違いなかった。さばさばしているとよく評されるが、そういった狭量さと執念深さが私にはある。


 だけど誰もがそのような強い態度をとれるわけじゃない。

 子供たちの世界のほうが力関係がはっきりしているだけに、いったんランク付けがなされてしまうと覆すのは非常に困難だ。

 息を潜めるようにしてクラスでの時間をやりすごしている子に、ただ「もっとみんなと仲よくしましょう」とだけ言って終わりにするのは大人の怠慢だろう。

 ここでようやく私は口を挟む。


「むしろ、そういう経験をしてこられた宮坂先生であればこそ、同じような悩みを抱えている子たちに細やかな配慮をしてあげられるのではないでしょうか」


「ふふ、間宮先生にそう言っていただけるともう少し頑張れる気がします。ないものねだり、なのかもしれませんね。わたしはどうしたってあなたのようにはなれない。だから、憧れていました」


 真っ直ぐに私の目を見て彼女は言った。

 互いの担当科目も違えば学年も重なったことがなかったため、今まで二人の間に交流などないに等しかった。

 にもかかわらず、どうして宮坂先生はこれほど踏みこんだ話をするつもりになったのか、そこがまるでわからない。

 自分でこう言ってしまうのもどうかと思うが、相手は私だ。

 朝の一件でもわかるように、いわゆる思慮の足りないお調子者というのが間宮夕希という人間に貼られたレッテルではないだろうか。


「遠回しなのは苦手ですから、はっきりお訊ねします。なぜ、私みたいなまだ教師として未熟な者にそういったお話を?」


 付き合いもないのに、とは口にできなかった。

 だが宮坂先生は言外の意味をきちんと理解していたらしい。


「もうすぐ異動になるんですよ」


 彼女から告げられた「異動」の短いフレーズは、私の抱いていた疑問を氷解させるのに充分だった。


「その前にぜひともこうやってちゃんとお話をしてみたかった。でも三つ子の魂百までなのか、なかなか切り出せなくて。最後のバレンタイン様様、チョコレートという素敵な口実があればこそですね。これまでは間宮先生と八子先生が楽しそうに飲みに行かれるのを『いいなあ、わたしも誘ってくれないかなあ』って眺めているだけでしたから」


 気づかなかったでしょう、と彼女はいたずらっぽく笑った。

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