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 車のところまでやってきておきながら、うかつにも教室に忘れ物をしてきたことに気づいた。生徒たちと一緒に給食を食べるのに使うお箸という、まさに中学生レベルの忘れ物なのだが、取りに戻らないわけにもいかない。


 バスで通勤している宮坂先生を見送ったあと、早足で職員室とは別棟の北校舎にある教室へと向かう。その途上、中庭に設けられた通路を渡っているときにまたしても呼び止められてしまった。

 今度の声は北校舎の二階の窓から降ってきた。


「間宮先生、ハウス!」


 私は犬か。噛みつくぞこら。

 声の主はすぐに私のいる一階へと駆け下りてきた。もちろん八子先生である。

 エプロンを掛けたままでいるところを見ると、彼女が顧問を務める料理部はこの時間まで活動していたのだろう。


「ちょっと、もう帰るつもりだったんですか」


 コート姿の私を無遠慮に眺め回して彼女が言う。


「仕事もひと段落したんだし帰らせてよ……。飲みに行く約束はしてなかったでしょ。行くんだったら別にかまわないけどさ」


「ああ、いえ。そういうつもりではなく」


 そう言って直立不動の姿勢をとった八子先生は深々とお辞儀をした。


「今朝はわたしの短慮のせいで気を遣わせてしまった上に恥までかかせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」


「ちょっ、何してんの、やめなよ。頭上げなって」


「いいえ。自己満足にすぎないとわかってはいますが、こうしてきちんと謝らせていただかないとわたしの気持ちが納得できません」


 ああもう、とこの強情な後輩にさすがの私も手を焼く。


「面倒なバレンタインがあれで終わったんだから別にいいじゃない。だいたいねえ、謝るって言ったって私のモットーは『誠意は言葉ではなく金額』なんだが」


 かつて契約更改の際にそんなコメントを残した野球選手がいたのだ。

 ただし、その選手は地震や台風などに見舞われた被災地に多額の寄付をすることでも知られている。

 ようやく頭を上げてくれた八子先生は少し考えこむ素振りを見せてから言った。


「ならスパークリングワインはどうでしょう」


「おいおい、本気にしないでってば。冗談に決まってるでしょ」


「わかってますよ。でも冗談抜きでスパークリングはチョコレートにだって合いますから」


 エプロンのポケットから彼女が差しだしてきたアッシュブラウンの小さな箱を目にして驚いた。


「うわっ、ジャン=ポール・エヴァンじゃない!」


「いえ、外側だけです。中身はさっきまで部員の子たちと一緒に作っていたチョコですよ」


「おお……手作りかあ。それはそれで美味しそう。いただいていいの?」


「もちろんです」


 さすがに一人暮らしをしているだけあって八子先生の料理の腕は確かだ。

 何度も彼女の部屋でご馳走になっている私が、そうやっていくら褒めても「お酒のアテなんて簡単なものですから」と謙遜ばかりしていただけに、初めてもらう彼女作のお菓子がどういう出来映えなのかとても楽しみである。


「あと、ガトーショコラも少し残っていますが」


「それもいる」


 もういただけるものは全部いただいてしまおう。

 それにしても人気の高い宮坂先生と八子先生の二人からチョコレートをもらったとうちのクラスの男子どもが知ったら、きっと「ずるい!」とばかりに盛大なバッシングを受けるに違いなかった。

 中学生男子のオーバーなリアクションはからかいがいがある。

 だがチョコレートを受け取った者には等しくホワイト・デイというイベントが待ち構えているのを忘れてはならない。


「お返しは……しなきゃいけないよね、やっぱり」


「ホワイト・デイのことなら別にかまいませんよ。見返りがほしくてあげるわけではありませんので」


 やはり八子先生、ぶれない。だからといっていい年をした大人が「じゃあ何もなしで」とはいくはずもないだろう。

 先ほど彼女が言っていたことを踏まえ、ひとつ提案をしてみる。


「そうねえ、じゃあ私がスパークリングワインを買ってくるからチョコレートと一緒に飲もうよ。明日の午後って空いてる?」


「また急ですね。でも大丈夫です」


「オッケー、決まりね。午前中はうちの母上とデパートに出掛ける用事があるから、昼過ぎにうちにおいでよ。場所、わかるよね」


 それは問題ないのですが、と彼女はどこか申し訳なさそうに言う。


「何だかまた気を遣わせてしまったみたいで」


「いいっていいって、気にしなさんなって。でさ、もう一人誘ってみたい人がいるんだけど、かまわないかな」


「どなたでしょうか。間宮先生のご友人ですか」


 八子先生の問いかけに私は答えない。

 唇に人さし指をそっと当て、「秘密」とだけ口にした。

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