6章 トルネードにうってつけの日
6-1
梅雨入り宣言はまだ出されておらず、六月にしては不釣り合いなほどの青空が広がっているのがまるで天からの贈り物のように感じられてしまう。
いつもとは少し装いを変えたポワソン・ダヴリルの駐車場で、談笑しながら私たちはそれぞれ手に持ったフルートグラスへと軽く口をつけた。
すももを使った薄紅色のウェルカムドリンクであり、宮坂先生のはノンアルコールのソーダ、私のはスパークリングワインでそれぞれ割ったものだ。爽やかでとても美味しい。
いかにも宮坂先生らしい、清楚さを感じさせる紺色のドレスの上からでもお腹の膨らみがはっきりとわかる。
「最近やたらと食欲がわいてしまって」
ついこの間まではしんどくてへばってばかりだったのに、と微笑みながら話す彼女の顔は半年前と何も変わっていなかった。
そりゃそうだろう。妊娠したからといって誰も彼もがすぐに母親という存在になっていくはずもない。
教員免許を持っていて教壇に立てば全員が教師か、と言われれば答えは否であるのと同様に。
「うちの母いわく、バレーをやってた頃のおれより食べているんじゃないかって話です」
「さすがにそれは盛りすぎでしょ!」
木組みのテーブル上で手際よく来客へのドリンクを用意しながら茶化す千尋くんに対し、口を尖らせながら姉がクレームをつけていた。
千尋くんは東京からの夜行バスで六時間近く揺られた後、すぐに店へとやってきて疲れもみせず仕事へと取りかかったのだそうだ。
いや、仕事じゃないな。こんなに楽しそうな顔でできる仕事なんて世の中にそうそうあるもんじゃないよ。
今日、八子先生はポワソン・ダヴリルの鵜野シェフと結婚する。
「たしか交際を始めて八か月ですよね」
最初に聞いたときは少し早いような気もしたんですけど、と宮坂先生が口にした。
私の脳裏に、頬を赤く染めた八子先生が「結婚、します」と告白してきた日のことが自然と浮かんでくる。
「そりゃまあ、八年付き合ってた人からすれば」
「ううっ、それを言われると」
少し意地悪な私の返しに彼女も苦笑いだ。
だがすかさず千尋くんからフォローの言葉がかけられる。
「いいじゃない、人それぞれで。お姉ちゃんにはお姉ちゃんの、シェフや八子さんにも適切なタイミングてのがあったんだよ、きっと」
まったくもってできた弟である。
胃のあたりで「じゃあ私のタイミングは?」という質問が出口を探してふらふらさ迷っているが、こいつはそのまま体内に留めておこう。
好青年を困らせるなんて大人の女のやることではないのだからね。
鵜野シェフのご親戚の方だろうか、相当に強面な痩せぎすの男性がやってきたので私と宮坂先生は「また後でね」と千尋くんに小さく手を振ってその場を離れた。
意外にも彼らは親しげな様子で会話を交わしている。どうやら以前からの知り合いらしい。
「あーあ、千尋が間宮先生とお付き合いしてくれていたらなあ」
傍らでさりげなく唐突な爆弾発言をかましてくる宮坂先生。
さすがにこの距離では千尋くんの耳には届かないだろうが、それでも一瞬どきっとしてしまったよ私は。
「だったら宮坂先生の呼び方が『お義姉さん』に変わっちゃいますね」
「もちろん、わたしとしては大歓迎です」
「あはは。でも、千尋くんにはそのうち素敵な恋人ができますよ。久しぶりに会ったせいもあるんでしょうけど、何だかぐっと大人の男性になった印象を受けましたし」
「たしかに雰囲気が少し変わったのかもしれません。ただ、夜行バスで帰ってきて結婚式とパーティーを切り盛りし、またすぐに夜行バスで戻っていくなんてのは若い証拠です」
「若いですよねえ……」
もう私らには無理無理、と互いに笑いながら顔を見合わせる。
人前式の開始までにはまだ少し時間があった。
本日の主役たる二人は姿を見せていないがそれもそのはず、披露宴の代わりとして行われるパーティーの料理を仕上げている最中なのだ。
遠足の朝を待ち切れない小学生男子のごとき有様だった私は、指定されていたよりも随分と早い時間にこちらへと着いてしまった。
家族以外はまだ誰もやってきていない。
とにかくまずは挨拶を、と準備中の店内へとおそるおそる入ってみれば、最初に目ざとく私に気づいたのが厨房にいた八子先生だった。
「間宮先生!」
長袖の白いシャツに黒いエプロンという出で立ちで彼女は駆け寄ってきた。
「ごめんね、ちょっと早く来すぎちゃった」
それから丁寧にお辞儀をして言う。
「ご結婚、おめでとうございます」
だがしばらく返事がなかった。あれ、と思いつつ顔を上げてみると、八子先生は両目からぼろぼろと涙を流しているのを手の甲で必死に拭っていた。
「こらこら、泣くにはだいぶ時間が早いでしょうよ。脱水症状になるって」
「すみません。でも、今日という大事な日に、間宮先生がいてくれることが本当にうれしくて」
「ふふ。こりゃシェフに嫉妬されちゃうかもね」
そう言いながら奥にいた鵜野シェフへとウインクを送る。そのすぐ近くでは晶奈ちゃんが楽しそうに手を叩きながら口笛を吹いていた。
絶対、という言葉を安易に口にするのは普段なら私の好むところではない。だけど今回ばかりは確信をもって使わせてもらおう。
最高の一日になるよ、今日は。それはもう絶対にね。
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