5-5
最後まで互いに口汚く罵り合いながら鏑木と別れたあと、書店や服屋を適当にぶらつきながら夜まで時間を潰していた。
本来の日曜であれば千尋くんが勤務するポワソン・ダヴリルもディナー営業を行うはずなのだが、今日にかぎっては午後に結婚式とパーティーが入っていたため早く上がれるのだという。
結婚されたのは鵜野シェフのお知り合いの方らしく、ポワソン・ダヴリルにて両家のご家族だけでささやかに新郎新婦の門出を祝われるのだそうだ。
「結婚式かあ」
ゲストとしてなら私だって両手の指で足りないほど出席している。
シーちゃんも宮坂先生も他の友人知人たちも、とびっきりとまでは言わないけれど皆とても綺麗だった。それは容姿の美醜の話じゃない。
人生の新しい局面に踏み込んでいこう、そう決意した彼女たちが前を向いているからこその美しさなんじゃないだろうか。
腕時計の針は約束の時刻である午後七時に近づいていた。
繁華街の裏通り、飲食店がいくつか集まったビルの階段を上がった私はそのうちの一軒のドアをゆっくりと押し開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中に立つまだ若いマスターが低い声で迎えてくれる。醸しだしている空気こそベテランのそれだが、見立てとしては三十前後だろうか。
薄暗く手狭な店内で目を凝らすと奥の椅子に腰かけている千尋くんの姿が見えた。
「おっつかれさーん、待たせちゃったみたいね」
軽快に、軽快に。大丈夫、私はいつも通りだ。
「いえ、おれもついさっき来たばかりなんで」
模範解答を返してくる千尋くん。
「珍しいですね、間宮さん。一軒目からこういうお店で待ち合わせなんて」
「そう?」
椅子を引き、ショルダーバッグは体と背もたれとで挟むようにして腰掛けた。
このお店にはカウンター席しかなく、パッと見は明らかにバーだ。マスターが背にしている壁面には様々なアルコール飲料の瓶がずらりと並べられている。
だがどちらかといえば「お酒も出せる夜のカフェ」寄りのメニュー構成になっており、私もいろいろなシチュエーションでお世話になっていた。
「賑やかなところよりは静かな場所が気分だったのかも、何となく」
「初めて来たんだけど、雰囲気ありすぎて入るときちょっとびびった」
敬語とタメ口が混じり合う彼の口調は普段通りで少しほっとする。
けれども、わざわざ「話があるから会おう」と伝えてきたからには、彼の内心にだって穏やかならざるものが渦巻いているに違いない。
しかしまあ、焦る必要もなかった。夜はまだ始まったばかりなのだ、ゆっくりとお互いの思うところを話していけばいいだろう。
「仕事が終わったばっかりでお腹空いているんじゃない? フードメニューもご飯ものとか麺類とかいろいろ揃ってるよ」
「いや、とりあえずはドリンクだけで。パーティー用の料理、結構つまみ食いしちゃったから」
そう言って千尋くんはカウンター越しにホットのカフェラテを注文する。私もホットチョコレートを頼んだ。
「それは残念。ここの日曜限定メニュー、チーズたっぷり鉄鍋ナポリタンは超おすすめなのに」
「鉄板じゃなく鉄鍋?」
「そ。半端じゃなく盛りがよくてさ、以前に宮坂先生が完食したときはしばらく動けなかったんだよ」
「お姉ちゃん、食べ物を残すの大嫌いだからなあ……」
「可愛らしい見かけによらず、意外なほど頑固な人だよね」
笑いながらの私の言葉に、千尋くんは力強く頷いて同意してくれた。
「あと、お姉ちゃんは間宮さんのこと好きすぎ。この前なんか義兄さんが『おれのことは絶対あんなきらきらした表情で話してくれないよな』ってため息ついてましたし」
「あはは……」
「でもその後で『あの顔を見るたびに惚れ直すからまあいいか』って」
「最後は結局惚気かよ!」
出汁にされてしまった感なきにしもあらずだが、八年間も付き合ってきてなお「惚れ直す」と夫に言わしめてしまう宮坂先生、恐るべし。
「まあ、間宮さんのことを大好きなのはお姉ちゃんに限った話じゃないけどさ」
千尋くんが後ろへもたれかかると椅子がぎいと鳴った。
「八子さんも大概ですよ。うちのシェフが『間宮さんについてえらく詳しくなってしまった気がする』ってぼやいてたから。二人で会ってるときにどれだけ間宮さんのことばかり話してんのかと」
「ぎゃーっ、あのバカ!」
いったい私に関するどんな話を鵜野シェフにしているのか、これは早急に詳細を聞きだす必要がありそうだった。
図々しい見栄でしかないとはわかっていても、鵜野シェフの中での間宮夕希像は、恋人の優しくて頼りになる先輩であってほしいのだ。
ただ、年度が変わればこれまでのようには一緒に飲みに行けなくなるだろう。
私も八子先生もすでに異動が決まっていた。来月からはそれぞれ別の学校での勤務となる。
千尋くんのカフェラテと私のホットチョコレートが同時に運ばれてきたので、互いにカップへ口をつけた。甘くて温かい液体が喉を流れていくのがわかる。
ソーサーの上にカップを戻した千尋くんはほんの少しだけ息を吸う。
「おれ、春から東京に行くことになりました」
あまりに唐突だった。
「は? え、東京? あの花の都の? てか、お店はどうすんの。千尋くんがいなけりゃサービスする人がいなくなるじゃん」
いきなりの告白で混乱した気持ちが、整理されることなくそのまま言葉となって飛び出してしまう。
てっきり「付き合うべきか、付き合わざるべきか」といった話題だと身構えていた私にとって、まったく想定外すぎた。
恋愛脳の鏑木と本当に同レベルじゃないか。
彼にとってきっと悩んだ末の結論なのだろうけど、私はあのお店の三人がとても好きだった。年齢も性別もばらばらなのに、一つのチームだと感じさせてくれる彼らの空気が崩れてなくなってしまうのがたまらなく寂しかった。
千尋くんは淡々と続きを語りだす。
「この一年、我流でやってきて限界を知りました。シェフの作る料理は本当に凄いのに、それを客に伝える役目であるはずのおれはあまりに力不足なんです。おれがポワソン・ダヴリルの足を引っ張っているんです」
真剣そのものである彼の横顔を、口を挟めず私はただぼんやりと眺めていた。
「これから自分がどうすればいいのか、忙しかったクリスマスが終わって年末の大掃除をしていたときに思い切ってシェフに相談しました。そうしたらシェフ、ずっと黙りこんでしまったんです。怒らせてしまったのかと最初は思いましたがそうじゃなかった。しばらくしてから言われたんです、『東京にある知り合いの店にホールの空きがあった、勉強してこい』って。名前を聞いたらびっくりして腰抜かすくらいの一流店でした」
「ああ……」
「これから先もずっと、もう死ぬまでシェフには頭が上がらないです。何年後になるかはわからないけどここへ戻ってきて恩を返さなきゃいけない。それはもう、絶対に」
シェフに聞かれたら「つまんねえこと考えるな」と怒鳴られそうだけど、そう言ってようやく千尋くんの強張っていた表情に笑みが戻った。
「そっか、じゃあ晶奈ちゃんも寂しくなるだろうね」
こんな言い方しか私にはできない。
「晶奈は晶奈で、たぶん今の学校を卒業したら修業のために単身でフランスへ渡ると思うよ。あいつはおれなんかより随分早く、自分がどうなりたいのかをイメージできていたみたいだから」
千尋くんは四つ、晶奈ちゃんは八つも年下だというのに、私よりはるかに大人びているように思えて仕方なかった。
いまだ目の前の出来事に対応していくだけで精いっぱいで、行く末のデザインなんてずっと後回しにしてきた身にはあまりに眩しすぎる。
彼らは自分自身を信じ、期待しているんだ。
現状に甘んじず、「もっと先へ、先へ」と貪欲に遠くを目指して歩きだしている。
いつの間にか私は他人だけじゃなく自分自身にも期待をしなくなっていたのかもしれない。
近いうちに送別会をやるからね、と約束してそれほど遅くない時間にお開きとなった。
踏み込もうとしなかった者には嘆く資格さえないのだけれど、私たちの関係が恋愛まで至らなかったことを残念だと思う気持ちは確かにある。
だからといって繋がりが消えてしまうわけじゃない。「人は恋愛のみにて生くるものにあらず」と鏑木を諭したのは他ならぬ私じゃないか。
そういえば鏑木のやつ、別れ際に「あんたも失恋したらちゃんと連絡してきなよ。呼吸困難になるくらい笑い飛ばしてやるから」などとほざいていた。
駅へ向かって歩きながら私はスマホをバッグから取り出した。鏑木の番号を画面が映しだしたところで、やっぱり気が変わって再びスマホをしまいこむ。
これは失恋じゃないし、そもそもあいつに話してやる義理などない。帰ってミステリ小説の続きを読む方がまだましだ。
十二年前の私が今の姿を見たらいったいどう思うだろう。
失望するかな。それとも「初めから期待なんてしていない」って強がるかな。
いまだに鏑木との縁が切れていないことにがっかりするのだけは断言できるけどね。
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