6-2

 最後の招待客がやってきたのは、もうじき人前式が始まろうとする時間になってのことだった。

 タクシーが停まり、車内から真っ白な髪をしたおばあちゃんが杖をつきながら降りてくる。だいぶお年を召されているらしく、杖をついていても足取りは相当に覚束ない。付き添いの男性に支えられてどうにかといった様子である。


 よかった間に合った、と慌てて駆け寄っていった女性が八子先生のご家族の方だ。

 高齢の祖母と、八子先生にとって伯父にあたるその息子夫婦、この三人だけが新婦側の列席者なのだと私はすでに聞かされている。

 両親は来ない。


「おばあちゃん、今日は来てくれてありがとう」


 店内からやってきた八子先生が、腰を屈めてそっと骨ばった老婆の手をとる。

 しかしまだエプロン姿のままでいた彼女に向けられたのは険のある目つきだった。


「そんなことより何だいその格好は。香織あんた、結婚式なんだからふさわしい服装ってものがあるでしょう」


「相変わらずだね」


 元気そうで安心した、と八子先生が苦笑いを浮かべている。


「大丈夫、お料理の用意が終わればちゃんと着替えるから」


「ふん、だったらいいんだけどね」


 やりとりを見守っていた私には、これが家族の会話だとはとても思えなかった。

 たぶん、それは私が幸せな家庭で育ってきたからだ。

 うちの父と母はとても仲がよく、そんな二人がとても大事に一人娘を育ててくれたのだとちゃんと自覚している。

 いつだって三人の間には会話があったし、よく一緒に買い物や食事へと出掛けたりもした。猫のレオもいて、今にして思えば「ああ、あれが幸せってことだったんだな」って頷ける。

 たとえ父やレオがもうこの世にはおらずとも、その思い出は消えることなく私の心を温めてくれていた。


 八子先生が自身の家族について話してくれたのはたった二週間前のことだ。

 その少し前に私と彼女と宮坂先生、いつもの面子で休日のランチを楽しんでいたときに八子先生から提案があった。


「よろしければ今度、わたしの部屋で飲みませんか」


 独身生活最後のパジャマパーティーです、とのお誘いだ。

 目を輝かせて「わあ、それは楽しそうですね!」と喜んでいる宮坂先生を見ていると、どうしてもついからかいたくなってしまう。


「あら残念、今回の参加資格は独身女性だけなんですぅ」


 もちろん某国民的アニメの金持ち坊ちゃん的なおふざけだったのだが、あろうことか宮坂先生は「そんな……」と本気でしょげかえってしまった。

 直後、八子先生からしこたま怒られたのは言うまでもない。

 私たち三人は翌週金曜の夜、八子先生が暮らすマンションに集まった。

 お酒におつまみ、甘いもの。それぞれが持ち寄ってパーティーはにぎやかにスタートした。


 いくつも瓶や缶が空き、食べ終わったお皿が何枚も片付けられるにつれ、飛ばし気味だった会話のペースも次第に落ち着いたものとなっていく。

 そんな中、エアポケットのような沈黙が訪れたのを機として八子先生が大きく深呼吸をした。


「お二人に話しておきたいことがあります。わたしの家族についてです」


 これまで不自然なほど出てこなかった話題だ。

 意を決して。唇を噛むようにしながらそんな表情をしている彼女を見て、私はとっさに反応する。


「友人同士だからって、何もかも話さなきゃいけないわけじゃないんだからね」


「そうですよ。ちょっとくらい内緒にしていることがあった方がミステリアスなんですから、もし言いにくいことならお墓の中まで持っていってください」


 宮坂先生も後に続く。

 けれども八子先生は伏し目がちに小さく首を横に振った。


「いえ。ずっと話そう、話そうと思いなからもできずにいたのです。わたしがこんなことを話せる相手は間宮先生と宮坂先生しかいないのに」


 それから彼女は顔を上げ、決然と語りだしたのだ。

 娘が生まれてすぐに離婚したご両親の結婚生活は二年にも満たなかったこと。

 親権をとったにもかかわらず、母はまだ幼い八子先生をまるで顧みなかったこと。

 見かねた祖母が彼女を引き取ったこと。

 折り合いはそれほどよくなかったにせよ、祖母と二人きりの生活が十年間は続いたこと。

 足を悪くした祖母が長男夫婦の家で同居するようになったこと。


 その際、祖母についていくか援助を受けて一人暮らしをするかの選択肢が高校生になったばかりの八子先生にあった。

 迷わず彼女は後者を選んだ。


「おばあちゃんや伯父夫婦には感謝しています。親に見捨てられたような子供をちゃんと大人に育ててくれたのですから」


 そう言って八子先生は力なく微笑んだ。


「今、お父さんとお母さんは……?」


 おそるおそるといった調子で宮坂先生が訊ねる。


「おばあちゃんたちにもずっと連絡してきていないそうですが、どこかで生きてはいるんでしょうね。でも、わたしにはもう何の関係もない人たちですので」


 ロックグラスの縁を気怠そうに人差し指でなぞりながら、彼女は独白を続けていく。私も宮坂先生も静かに耳を傾けていた。


「死ぬまでずっと一人で生きていくんだって思っていました。友達なんてどう作ればいいのかまったくわからなかったし、声をかけてくる男の子たちは下心が見え見えで、相手にしようって気もさらさら起こらなかった。ましてや結婚なんて、わたしにとっては本当に遥か彼方のおとぎ話みたいなものだったんです。あまりに現実感がなくて」


 三人が座っているフローリングの床がわずかに軋んだ。


「ときどき、今の自分は長い夢の中にいるんじゃないかって気がするんです。だってそうでしょう、子供の頃にほしかったものが全部あるんですよ?」


 もうここで目が覚めてしまっても充分満足だな、と呟いてどこか遠くを見つめていた彼女の姿を目の当たりにし、しばらく鳴りを潜めていた私の中の激情家がむっくりと起き上がってきた。

 そう、三つ子の魂は百まで不変なのだ。


「この、ばーか! もう、ほんと、ばーか!」


 自分でも何を口走っているのかよくわからなかったが、後ろから八子先生を思いきりぎゅうっと羽交い絞めにしてやる。


「ちょっと間宮先生、痛いじゃないですか」


「だったら夢じゃないんだっての!」


 間髪入れず、半ば怒鳴るようにして言い返す。

 不思議なことに宮坂先生はそんな私たちを止めるわけでもなく、ただにこにこと眺めていた。


「あの、宮坂先生……?」


 私と八子先生、二人の声が期せずして重なる。


「別に夢でもかまわないと思いますよ。邯鄲の夢みたいに、いつの日か死を迎えたときに長い長い夢から覚めるのだとしたら、それはもう本物と同じですから。だけど今目が覚めてしまうのは少しばかり早いでしょう?」


 いかにも国語教師らしいセリフとともに、宮坂先生が八子先生の手を握った。

 私も羽交い絞めからコアラの親子っぽい体勢へと移行し、顎を彼女の右肩へと乗せる。


「ですよねー。百歳まではこんな感じでわいわいお酒を飲んでいたいですし」


「日本人女性における平均寿命はだいたい八十七歳ですが」


「そこは気合と根性で何とかする。二人もどうにか頑張ってください」


 若干うっとうしそうに肩を動かす八子先生から「さすがにプラス十三年は……」と言われるも、案外悪乗りをしてくることの多い宮坂先生が「いっそギネスブックを目指しましょうか」などとガッツポーズをとっている。

 八子先生の柔らかい左ほっぺを無許可でつまみ、目いっぱい伸ばしてやりながら私は友達としてのお願いをした。


「頼むからさ、これからも楽しくやっていこうよ」


 だってあなたがいないと、私はとても寂しい。

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