6-3

『ライ麦畑でつかまえて』って読まれたことありますか、と彼女が訊ねてきたのも先日のパジャマパーティーでのことだ。

 夜も更け、妊娠中である宮坂先生はさすがに日付が変わる前に帰宅していた。

 八子先生と二人、静かに飲んでいた私たちの話題は「なぜ教師になろうと思ったか」という、普段ではなかなか正面きって扱いづらいテーマへと移っていた。

 当然ながら教師になった人の数だけその理由が存在するはずだが、八子先生はまずJ・D・サリンジャーの代表作とされる小説について問うことから切りだしてきたのである。


「あれでしょ、ホールデン少年が始終『クソったれ』って言ってるお話。いや実際にはそこまで言ってなかったかもしれないけど、ちゃんと最後まで読んでるよ。高校のとき、いつも面白い授業をしてくれていた先生がおすすめしてくれてさ」


 乾いたクラッカーをかじりながら答えた内容には少しだけ嘘が混じっていた。その先生が勧めてくれたのは事実なのだが、読みだしたのはそれより前なのだ。

 別に隠すほどのことじゃないとはわかっていても、推薦人があの鏑木佐智だっただけに素直に名前を挙げてやるのは何だか癪に障ってしまうんだよねえ。


「ソフトボール部にいたんじゃモテない」


 そんな迷言を吐いたあいつは、私とは別の高校に入ってからなぜか文学少女かぶれへと変貌していたのだ。方向は違えど高校デビューというやつだったのだろう。

 四条香子とともに「モテないっていうよりあんたには男を見る目が壊滅的にないだけ」と諭したのだが、そもそも恋愛に関しては猪武者のようなあのバカに聞く耳などあるはずもない。

 しかしおすすめしてくれた本だけは、なぜかすべてが当たりだった。そのうちの一冊が『ライ麦畑でつかまえて』だったわけだ。


「でも何であの小説がきっかけなのよ」


「妹のフィービーがホールデンに『お兄ちゃんはいったい何になりたいの』って問いかける場面があるじゃないですか。わたしも彼と同じく、キャッチャー・イン・ザ・ライになりたかったんです。ライ麦畑があって、近くには崖があって、楽しそうに畑で走り回っている子供たちが、その崖から落っこちてしまわないようつかまえてあげる人に」


 私も彼女ももちろん酔っていた。だけど酔っているからこそできる話もある。


「誰かに必要とされたいだなんて願うのは贅沢だって思っていました。だからせめて、子供たちの背中をそっと支えてあげられるような、そんな大人になれたらわたしにだってきっと居場所ができる気がしていたんでしょうね」


「その気持ちは、ちょっとわかる」


「それはそうでしょう。崖から落ちそうになっていた島ノ内くんを支えてあげたのは間宮先生、あなたなんですから」


 島ノ内くん、と耳にした瞬間、胸を焼かれたような痛みと、夏の白い開襟シャツから香る男の子特有の匂いの記憶がない交ぜとなって私の心はかき乱されてしまう。

 大きく息を吐き、平静を装ってどうにか返事を絞りだした。


「買い被りすぎ。宮坂先生もそうなんだけど、みんな私のことを買い被りすぎなんだよ。何の信念もなくただの気まぐれで動いて、結果どうにかなっただけなのにさ」


「結果オーライ、いいじゃないですか。間宮先生と親しくなれていなかったわたしの人生なんて、もしもの仮定であっても想像すらしたくありません」


「そんなにいいもんじゃないと思うんだけどねえ……。気まぐれなのに加えて私、相当に面倒くさいぞ?」


「知ってます」


 彼女はもう一度、力を込めて「よく知ってます」と繰り返した。


「二回も言わないでよ」


 そう答えた私の顔はきっと不服そうだったはずだ。けれども八子先生は意に介さず話を続けた。


「ねえ間宮先生、ご存知でしたか」


「何をさ」


「島ノ内くんが高校でも野球部で頑張っていたのを、です」


 どこかでひゅっと音がした。

 その正体が私自身の息を飲んだ音だったことに、何拍も遅れてようやく気づく。

 そうか、島ノ内くんはまた野球をやれるようになったのか。

 そうか。そうなのか。

 力が抜けてしまった私とは対照的に、「春季大会でもレギュラーだったみたいですよ」と語る八子先生は顔色ひとつ変えず淡々としたものだった。

 すでに踏み込む腹を括っているのだろう。


「ただの気まぐれだ、大したことはしていないっていつもあなたは茶化して言う。でも、自分の気持ちを押し殺してしまうことを気まぐれとは呼びませんよ。わたしならね」


 まったく、今夜の八子先生は教師みたいな持って回った言い方をする。

 そしてどんどん私の逃げ道が塞がれていく。


「聞いてるとさ、さっきからまるであのときの私が島ノ内くんに恋心を抱いていたみたいな言い方をするじゃない」


「違うんですか」


 正面から真っ直ぐに射抜いてくるような彼女の目。ごまかせる気がしなかった。


「あーもう。違わないわよ、ちくしょう」


 こうして口に出したのは初めてだ。時効寸前で捕まった犯人の心境ってこんな感じなのかな。少しだけ楽になれたかもしれない。

 予期していた通りの答えのためか、八子先生が見せた反応はかすかに頷いただけだった。


「間宮先生と形は違えど、あの日の夜をわたしもずっと引きずっていました。本当に為すべきは、あなたの背中をそっと押してあげることだったんじゃないかって。間宮先生がいなければ今のわたしなんて全然別の存在だったはずなのに、それなのに」


 背筋の伸びた綺麗な姿勢で彼女が言った。


「わたしはまだ、あなたに何も返せていないんです」

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