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 うちのシェフに電話してみましょうか、と晶奈ちゃんが提案したのはみんながあらかたデザートを食べ終わった頃のことである。

 ただし、私だけはサクランボを漬け込んだフルーツビールをさらに頼もうとしていたのだが。


 腸詰にしたブーダンノワール(豚の血を使ったソーセージだ)と煮込み料理の仔羊のナヴァラン、私が止めたにもかかわらず千尋くんがメインの肉料理を二皿頼んでしまったので全員お腹は膨れあがっていたが、それでもきっちりデザートまで食べ切った。

 初回来店時はあまりのボリュームに少し残してしまうという失態を演じた私にとっては、ささやかなリベンジ成功といえた。

 店員を呼ぼうと上げかけていた手をいったん下ろしながら彼女に訊ねてみる。


「大丈夫かなあ。いろいろとお忙しいんじゃないの?」


「いやいやユーキさん、大丈夫ですってー。どうせ独り身なんですから、休みの日に用があって出かけてたところでDVDのレンタルショップくらいでしょ。むしろあたしから電話がかかってきたのを喜んでくれるはずです!」


 ノンアルコールドリンクしか口にしていないはずなのに、言動がすでに酔っぱらいのそれとは晶奈ちゃん恐るべし。うむ、千尋くんの手には余るわけだわ。

 さっそく彼女はスマホで番号を呼びだしている。


「もしもーし、お疲れさまでーす高柳ですー。今ですねえ、『シェフの恋愛をどうにかしようの会』がそろそろお開きになりそうでして」


 何だその会の名前は。私も初めて聞いたぞ。


「────うそっ、それほんとですか! うわあやばい、テンションめっちゃ上がってきました! ──へ? ああはい。そうですそうです、宮坂さんと二人です。──はい、黒猫亭ですよ。──なんだ、ここからすぐ近くじゃないですか。もちろん行きますよ!」


 何を思ったか、二人きりだと嘘をついた晶奈ちゃんは人差し指をぷっくり膨らんだ唇に当てて「静かにしててくださいね」とジェスチュアで伝えてきた。

 わけがわからぬまま私と宮坂先生はお口にチャックである。


「じゃあシェフ、三十分後に合流で。──はい、ではまた後ほど」


 お疲れさまです、と彼女は電話を切った。

 そのまま私たちへ笑顔を見せ、「ということですので」と告げる。

 え、何? もしかして私たちも一緒にあの厳つい鵜野シェフと合流しろってこと?


「端折りすぎだぞ、晶奈。ちゃんとみんなに説明しろって」


 腕を組んで千尋くんがじろりと睨む。


「宮坂さん、耳貸してください耳」


 言うなり、彼女は千尋くんの耳たぶをぐいと引っ張って自分へと引き寄せた。


「痛いわ! ったく、何だよ。――はあ? おまえそれじゃあもうシェフと──」


「ストップ宮坂さん。言わぬが仏です」


 もしかして「言わぬが花」のつもりなのだろうか、晶奈ちゃん。

 訂正してあげた方がいいんだろうけど、お酒の席でそれもなあ。うーん、ジレンマだ。こちらはまさに本職の国語教師である隣の宮坂先生と顔を見合わせて、互いに微苦笑してしまう。


 いったい晶奈ちゃんに何を吹きこまれたのか、一転して千尋くんも乗り気となってこの四人で彼らのボスである鵜野シェフとお会いする流れになってしまった。

 考えようによってはこれはビッグチャンスかもしれない。何せ直談判できる機会がやってくるってことなのだから。


 思いがけず早い時間帯での退店となったが、黒猫亭の店主はわざわざ厨房から見送りに出てきてくれた。相変わらず人の好さそうな笑みを浮かべて。

 この四人での食事はとても楽しかった。けど、八子先生がいたならもっと楽しいんだろうなとも思う。願わくば、次は彼女とともに鵜野シェフにも参加してもらって大勢で賑やかにできればいい。


 十月の半ばではあったが、まだしぶとく夏の余韻が残り続けていて夜でも長袖のブラウス一枚で事足りる。むしろ夜風が心地よかった。

 先導するように前を晶奈ちゃんと千尋くんが歩き、その後ろから宮坂先生と私がついていく。繁華街から少し外れた立地である黒猫亭から国道沿いに進んでいるのだが、どうやら行き先はさほど離れていないらしい。


 私はこのあたりの道をとてもよく知っている。

 ここから先、二つ目の交差点を左に曲がって少し進めばそこに見えてくるのはアトライト・スタジアムなのだから。

 ネーミングライツによって今年からまったく馴染みのない名前に変わってしまったが、間違いなく私と島ノ内くんとで何度も通った球場だ。以前は父ともよく来たな。


 島ノ内くんに別れを告げてから私は一度も球場に足を運んでいない。

 毎日晩酌がてらにチェックしていたプロ野球のニュースもめっきり観なくなってしまった。

 何もすることがない休みの日の夜、たまに試合中継をつけっ放しにしてぼーっと眺めてみたりもするが、不意に胸の奥を小さな虫が喰い破っていくような感覚に襲われる。

 高校二年生になっている成長した彼の姿を想像しかけて、ピンぼけの像が焦点を結ぶ前に頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱した。

 それはもう、今の私とは何の関係もないことなんだ。


「どうかされましたか」


 よほど挙動不審だったのか、傍らから宮坂先生の心配そうな声がする。


「うーん、酔っちゃったのかもしれないですぅ」


 とびきり可愛らしいつもりで言ってみたところ、「あ、大丈夫そうですね」とあっさり退けられてしまった。演技力不足かはたまた可愛げ不足か。

 先導の二人は左へと折れ曲がり、球場へと続く道を進む。私の中でまた小さな虫が蠢きはじめたような気がした。

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