4-5

 スタジアム周辺は再整備事業によって大きく変わった。

 市民の憩いの場として使われることを想定した、いわばセントラルパークとでも呼ぶべき空間となっている。

 野球のボールを象った、ランドマーク的な扱いをされている時計が明々と周りを照らしており、そこに大柄な鵜野シェフがジーンズのポケットに手を突っこんだ姿勢で待っていた。

 だが、隣に立つもう一人の人物の姿を目にして私は心底驚いた。


「八子先生!」


 驚いたのはこちらだけではなかったらしく、いつもはぺたんこ靴なのに珍しくローヒールのパンプスを履いた八子先生もぎこちない動きで走り寄ってくる。


「それはわたしのセリフです。間宮先生に宮坂先生、どうしてここに」


 ポケットから出した手を腰に当て、大きくため息をついた鵜野シェフが射抜くような視線を晶奈ちゃんへと向けた。


「黙っていやがったな」


 えへへ、と晶奈ちゃんはまったく悪びれた様子もなく笑っている。


「だってこっちの方が面白いかなーって思いましたんで」


「ま、いいけどよ。そちらのお二人にさえ迷惑をかけていなけりゃな」


 別に怒っているわけではないらしく、まるでいたずら好きの妹をたしなめているかのような態度だった。

 そんな鷹揚なボスに対して千尋くんが不平を漏らす。


「シェフは晶奈に甘いっすわ……。がつんと叱ってください、がつんと」


「宮坂さんだって二つ返事で乗ったくせに」


 ぐっ、と千尋くんは言葉に詰まってしまった。

 楽しげな彼らを横目で眺めながら、「さて」と口にしてぱちんと指を鳴らす。八子先生には私たちに対する説明責任を果たしてもらわなくてはならない。


「夜はこれからだからね。一から百まで聞かせてもらいましょうか」


「いえいえ、千まででも構いませんよ」


 宮坂先生も口の端を上げて参戦してくる。


「あ……えと、その」


 うーん、目の前で顔をうつむき加減にしてもじもじしているこの綺麗な女性はいったい誰なんだろう。少なくとも私が知っている舌鋒鋭い八子香織じゃないね。

 強いて言えばコンタクト探しを手伝ってあげたときの彼女くらいだろうか、近いのは。

 口ごもるばかりで一向に切り出せずにいる八子先生の肩を鵜野シェフが軽く叩いた。助け舟を出してあげるつもりなのかしら、と思いきや発したのはたったの八文字だった。


「まあ、そんなわけだ」


「えー? どんなわけですかあ?」


 先ほどの自分は棚に上げ、晶奈ちゃんが鵜野シェフへと食い下がる。正面切って恋愛ごとを話すのが苦手な人だとわかっててやっているな。侮れん。

 いいからわかれ、と強弁しているのが聞こえてくる中、私は自分より背の高い八子先生の肩に手を回す。


「さ、洗いざらい吐いて楽になっちゃいな」


 我ながら乱暴な絡み方だと思ったが、彼女は小さくこくりと頷いた。本当にいったい何なんだ、この可愛すぎる生き物は。


「今日が初めてのデートだったんです。それで、先ほど、鵜野さんから、よかったらお付き合いを、と、その、あの……『はい』って」


 まだ混乱しているのか、要領を得ない説明ではあったものの大筋は理解した。


「デクレッシェンドですね」


「デクレッシェンドでしたね」


 宮坂先生と二人、顔を見合わせてけらけら笑う。たぶん、今は八子先生を思う存分からかえる唯一無二の機会だろうから。

 千尋くんと晶奈ちゃんも加わってさらに根掘り葉掘り問い質してみたところ、まずは午後から無難に映画、それからちょっと喫茶店(やはりと言うべきか、今どきのカフェではなかったらしい)に寄ってから夜ごはんのお店に行ったのだそうだ。

 しかしここで千尋くんから激しくクレームがつけられた。


「はあああ? シェフ、最初のデートで居酒屋六右衛門に連れていったんですか? どう考えても説教もんすよこれ!」


 もう「あんたアホですか」と言わんばかりの勢いである。

 けれども私は知っていた。居酒屋六右衛門が八子先生の大のお気に入りの店であることを。料亭などで研鑽を積んだご主人が、私たちの財布にも優しい値段で驚くほど美味しいものを食べさせてくれるのだ。のみならず地方都市ではなかなかお目にかかれないレアな日本酒や焼酎も取り揃えている。


「いやいや千尋くん。これ、正解だよ。さすがというか、もうシェフ大正解です」


 唸るような私の言葉に反応したのは晶奈ちゃんだった。


「あらら、これでまた宮坂さんモテない説が補強されてしまいましたねー」


「マジかよ……。おれが間違ってんのかよ……」


 自分の中の常識が一つ脆くも崩れ去ったのか、千尋くんはがっくりと肩を落としてしまった。

 そんな弟の頭を撫で回してから姉の宮坂先生が提案をする。


「とりあえずどうしましょう、おめでたいことですのでやっぱり胴上げでしょうか。年齢の数くらい?」


「宮坂先生、それいい!」


 ほろ酔い加減の彼女が冗談で言っているのか本気なのかは判別がつかなかったが、迷わず私はその案に乗った。

 当然、八子先生は嫌がって後ずさりしだした。


「ちょっと、間宮先生はともかく宮坂先生まで」


 逃がしはしない。私と宮坂先生の手ががっちりと彼女を捕まえたのだが、その弾みで長身の八子先生の体がバランスを崩した。

 しまった、今日の彼女は慣れないヒール付きの靴を履いているんだった。

 三つ巴になって転んでしまった私たちだが、そのことさえなぜだか無性に楽しく感じられて仕方なかった。大人のやることではないけれど、地面に寝っ転がったままで夜空を見上げているのがとても心地いい。


「お二人とも、ありがとうございます」


 今度ははっきりとそう口にした八子先生が、両隣にそれぞれいる私と宮坂先生をぎゅっと抱く。


「ふふっ。本当によかった」


 そう、宮坂先生の言葉通りだ。八子先生の恋が成就して本当によかった。

 彼女と鵜野シェフ、互いに不器用であってもこの二人ならゆっくりと穏やかに愛情を育てていくに違いない。


「幸せになりなさいよ」


 抱き締め返しながらありったけの真心を込めてエールを送る。

 だけどもし。私の中に「置いていかれてしまった」という気持ちがないと言ったなら、たぶんそれは嘘だと思う。

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