5章 さよならアドレッセンス

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 冬がもう終わろうとしていた。

 朝晩の冷え込みはまだ厳しいものの、体を動かしていれば遠くない春の訪れを肌で実感できる、などと口にしたなら八子先生あたりに「さしずめ脳筋ロマンチストですね」などと揶揄されてしまうだろうか。


 六球目にしてようやくボールをバットの真っ芯で捉える。

 何を隠そう、私は右投げ左打ちだ。ソフトボール部に所属していた中学校当時、遊び半分の見よう見まねで左打ちにトライしていたら、いつの間にか右では全然打てなくなってしまっていた。

 先輩後輩を問わず部員全てからバカにされたのは言うまでもない。


 それがあまりに悔しくて「だったら左打ちをマスターしてやるよぉ!」と宣言し、なけなしの小遣いをはたいて通いつめたのがここビクトリーバッティングセンターだった。

 ちなみに表の看板の「ト」はとっくの昔にペンキが剥がれていた(おまけに今でも塗り直されていない)ため、私の知り合いは皆「ビックリバッセン」と呼ぶ。


「よっしゃっ!」


 調子が出てきた。次々と面白いように鋭いライナー性の当たりをかっ飛ばす自分に惚れ惚れする。うーん、さすがは私。

 今どきのバッティングセンターのような、映像でのプロ野球のピッチャーと対戦できるケージなどありはしない。まるで『アウトレイジ ビヨンド』に出てきたバッティングセンターのロケ地だったかと見紛う店内には、錆びついているのではと心配になるほど古いアーム式のピッチングマシンが、ソフトボール用も含めて全部で七台並んでいるだけだ。防護用のネットだってところどころ破れている。


 ここへ来るのも考えてみれば随分と久しぶりだった。なかなか寝つけなかった昨日の晩、本棚に積んであった長編ミステリ小説につい手を出してしまったのが運の尽きだ。案の定就寝が大幅に遅れ、なのに悲しいかな体は勝手にいつもの時間で起きてしまう。二度寝も頭をよぎったが、どういう風の吹き回しなのか足が知らず知らずこちらへと向いた。


 そういえば、と私はいやな記憶を思い出す。まだ大学生だった頃、親しくなった男の子をこのビックリバッセンへと誘ったのだ。もしかしたらそのうち付き合うようになるのかな、と感じている相手に、自分の好きな場所を見てもらいたいと思った私の乙女心は尊重されてしかるべきだろう。

 結果から言えば、私はまるで空気を読めなかった。

 慣れないバッティングで悪戦苦闘しているインドア派なその子の隣で、何も考えずばかすか打ちまくってしまった。

 以来、その男の子と二人で出かけることは一度もなかった。


「そうか、あのとき私は彼の自尊心を傷つけてしまったのか」と不意に気づいたのは教員になってからのことである。遅い。


 だがバッティングセンターのいいところは無心になれることだ。つまらない思い出も、仕事で抱えた悩みも、少しばかり増えてしまった体重もどよんとした眠気も全部消えてくれる。そのはずだったのに。

 目の前のボールに集中しようとすればするほど、クリアになっていくポンコツな私の頭はどういうわけかたった一人の少年の姿を映しだそうとしてしまう。両手の皮が破れたせいで血を流しながらも泣きながらバットを振り続ける、島ノ内陸の姿を。


 学生時代の半ば持ちネタのような恋愛話には、社会人となって随分経った今では特にこれといった感傷などない。

 せいぜい「恥ずかしい」「封印したい」くらいのものだ。

 けれども、私にとってあの日のバッティングセンターはまさしく人生を変えてしまった場所だった。本当の意味で自分が教師の道に足を踏み入れたと言い切れるのはあのとき、あの場所でなのだ。

 似た空気を漂わせるここビックリバッセンによって、普段は努めて意識してこなかったものが不意に引きずりだされてしまったのは当然の成り行きだったのかもしれない。


 喜怒哀楽といったわかりやすい形をとってはくれず、ただひたすらに胸の底から衝きあげてくるような情動によって私のバッティングは乱される。

 結局、調子のピークは一瞬で終わり、その後は気のないスイングで球数を消費するだけに終始してしまった。

 ケージから出て、フェイスタオルで軽く汗を拭いた私はスマホにメールの着信があったことに気づく。


「はいはい、いったいどこのどちらさんかね」


 そこに表示された鏑木という名前を目にして、思わず「げっ」と声に出してしまう。中学校での同級生である鏑木佐智からの呼び出しはいつだって突然で、しかも用件は失恋の愚痴なのが確定済みだ。

 私の記憶が確かならば、あの恋愛脳女からまともな話をされた試しがない。

 だがまあ、そんな相手でも面白半分にからかえば暇潰しくらいにはなるか。今夜のデートまでにはまだまだ時間があるのだから。

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