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プロ野球の公式戦では、五回の表裏の攻防が終わればグラウンド整備が行われる。すなわち、観客にとってはそこが絶好のお手洗いタイムということだ。
「まったく、下り坂に入ったFAの選手に大金突っこむくらいなら先に女子トイレを増設しろっての」
特に贔屓にしているわけでもない地元球団に対して、舌打ちせんばかりに悪態をつく。お昼休みの銀行のATMか、初詣の賽銭箱前か、はたまた巷で人気のラーメン店かというくらいにトイレまでの行列が続いていたら、そりゃ心がささくれだつのも当然でしょう。
残念ながら私はそんなに人間ができていない。
まあ、すでにおかわりまでしたビールが効いているのは認めるしかないな。
じりじりとしか進まない列から解放されたのは、並びだして十分以上も経ってからのことだった。むしろよくその程度ですんだとみるべきか。
席で一人待ってくれている島ノ内くんへの手土産として、通路の売店でフライドポテトを買った私は少し早足で階段を上がり、賑やかなスタンドへとようやく戻ってきた。
太陽はとっくに沈み、辺りはすっかり夜となっている。
けれどもスタジアムに備えつけられた大型の照明が、眩いばかりの光でゲームが再開されたばかりのグラウンドをぽっかりと浮かびあがらせていた。
「すいませーん、ちょっと通りまーす」
他の観客たちが座っている前をにこやかに一声かけながら通り抜けていく。
島ノ内くんが待つ席のすぐそばまでやってきて、ようやく私はちょっとしたイレギュラーなイベントが起こっているらしいことに気がついた。
「えー、じゃあこの春からうちらと同じ南高生なんだー」
「後輩くんかー。やっぱりまだ初々しくて可愛いよねー」
いかにも女子高生です、とでもいうようにきゃっきゃとはしゃぐ二人の少女が島ノ内くんを挟みこむ形で立っていたのだ。
むう、と思わず私は唸る。
正直言って面白くない光景ではある。だが、彼にとってまったく見知らぬ他人と会話を交わすことがいいトレーニングになるのも承知しているつもりだ。
いつまでも私のようなおちゃらけた教師とばかり話していたのでは、この先もっと成長していく彼のためにならないはずだから。
割って入るのも躊躇われ、「さてどうしたものか」とひとりごちる。うつむき加減の島ノ内くんの様子は相当に戸惑っているように見受けられた。
彼が困っている顔をしているのは少し胸が痛む。
甘いなあ、と思いつつも彼に助け舟を出すべく、歩み寄っていった私は片方の少女の肩をぽん、と弾むように軽く叩いた。
「うちの弟に声をかけるとはなかなかお目が高いね、お嬢さん方」
本当に余裕がなかったのだろう。肌寒い四月の夜だというのに額に汗をかいている島ノ内くんは、私の顔を見てはっきりと安堵したような表情を浮かべた。
対照的に二人の少女はこれ見よがしなほど残念そうな調子でため息をつく。
「なーんだ、家族と一緒かあ。あーあ」
「けどちょっと年の離れたおねーさんなんだね」
「うんうん、親子でもいけそー」
おい、余計なこと言ってんじゃねえぞクソガキどもが。
そんな剣呑な感情がもうちょっとで顔に出かかるも、そこは大人としての度量で何とか堪える。
「ごめんねえ。うちの弟、ちょっと恥ずかしがりなところがあって」
引きつりそうになっている顔の筋肉をどうにか笑顔へと変え、それとなく女子高生二人にお引き取りを願った。空気を読むのは君たち得意なはずでしょ。
案に相違なく、少女たちは体の向きをさっと転じた。これ以上は時間の無駄だと判断すればさすがに見切りが早い。
「じゃーね陸くん。今度は学校で会おうねー」
「校内で見かけたらちゃんと声かけてよー」
互いに島ノ内くんへと声をかけ、手を振りながら足取り軽く去っていく。
さっそく下の名前で呼ぶとは油断も隙もない。まあ、どんな形であれ好意的に接してくれるのであれば私としては文句はないが。
最初に出会った一年生の頃はまだまだ小学生の延長でしかなかった島ノ内くん。そんな彼が今では男性アイドルグループ顔負けの容姿となりつつ、いじめや不登校という苦難を乗り越えてきたために目だけは恐ろしく大人びている。
こんな少年は探したってそうそう見つかるものではない。ちょっかいを出してきた彼女たちの気持ちもわからないではないのだ。
もっとも島ノ内くん自身はかなり気疲れしたとみえ、彼にしては珍しくだらしない姿勢をとっている。椅子に浅く腰かけたままで彼が言った。
「助かったよ、先生」
「いやあ、随分とおモテになってたご様子で」
どこか皮肉っぽい響きを伴っているのは否定しない。
軽く受け流されるかと思ったが、さにあらず。
「そんなんじゃないってば。だいたい、ぼくはさっきの人たちみたいな出会いを求めてるミーハーな感じはあまり好きじゃない。ここは野球場で、ぼくたちは野球を観にきているんだから」
真剣そのものの眼差しで島ノ内くんが力説した。
「そうかなあ」
私は小首を傾げてみせるのだが、こういう場合の角度は常に一定だ。無意識のうちに昔練習した「自分がいちばん可愛く見えるポーズ」が出てしまう。今となっては忘れてしまいたい記憶として一、二を争う恥ずかしい過去なのだが。
「スタジアムに足を運ぶきっかけがそういう動機でも別にいいと思うけどなあ。ほら、そこから野球自体を好きになってくれるかもしれないでしょ?」
そうやんわりと反論しつつ、島ノ内くんのなかにある以前と遜色ない野球への熱によってつい昔を思い出してしまう。
うちの中学の野球部は市内でも強豪の部類に入っていた。
そんなチームにあって、島ノ内くんは二年生でありながら中学総体市予選のレギュラーとして抜擢されたのだ。
だが好事魔多しとはよく言ったもの、状況はたったのワンプレーで暗転する。セカンドを守っていた彼のエラーによってチームはサヨナラ負けを喫してしまった。
それだけならまだいい。これまで以上に練習へ必死に取り組み、挽回の機会をうかがえばいいのだから。
結果からいえば彼にそんな機会は巡ってこなかった。
それどころか、いじめのターゲットとされ精神的にぎりぎりのところまで追いつめられていってしまうのだ。
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