間宮先生、今日はどこへ行きますか?

遊佐東吾

1章 大人はわかってあげない

1-1

「先生、焼き鳥だけしか買えなかったよ」


 どこもめちゃくちゃ並んでてさ、とぼやいた彼の視線は私の右手に留まる。


「──もう始めてるの?」


「でへへ」


 教職の身にある者らしからぬ、締まりのない笑い声だと我ながら思う。

 早くも半分がなくなっているカップの生ビール、まったくこいつこそが諸悪の根源だ。あとさわやかな好青年だった売り子にも非はあろう。

 四月の頭とあってまだ夕方は肌寒いが、いかにも美味しそうにビールが売られていたなら飲むしかないではないか。

 そう、私は何も悪くない。


「だらしない大人だなあ」


 あきれたようにため息をつきながら、島ノ内くんは私に焼き鳥の入った紙袋を手渡してきた。


「サンキュー」


 勢いよくウインクをしながら礼を言う。

 ライトスタンドからバックスクリーンを越えて左中間までの外野席は、一分の隙もないほどホームチームのカラーである赤色に染まっている。対するレフトスタンド付近は白と黒のストライプの群れ。

 ゲーム開始を待ち切れずボルテージが上がる一方の彼らを眺める島ノ内くんと私は、いつもと同じように三塁側内野席の中段あたりに陣取っていた。

 プロ野球のシーズンが開幕してまだ三戦目、おそらくこのスタジアムに足を運んできた大多数の人が久しぶりの観戦なのだろう。私たちも例外でなく、およそ半年ぶりにこの熱気に触れたわけだ。


 島ノ内くんと何度こうやって試合を観にきたか、その回数を私はちゃんと覚えている。今日で七度目だ。

 これまでの六試合、私たちはプロ野球ならではのハイレベルな攻防を楽しみながらいろいろな話をした。そのたびに島ノ内くんは私にいろいろな姿を見せてくれた。生気のない無表情だった彼、涙を流す彼、口汚く罵る彼、無邪気に笑う彼。そのすべてを鮮明に覚えている。

 今、目の前に立つ彼は疑わしそうに私を見遣る。


「本当に今日は車じゃないんだよね?」


「さすがに飲酒運転はしないよ……。大丈夫、八子先生が送り迎えしてくれるからさあ。やっぱ持つべきものは気の利く後輩だわ」


「ふーん。八子先生にあまり迷惑かけないでよ。あの人、いい先生だったし」


 ほう、とだけ返事した私に向かい、島ノ内くんは慌てたように空いたばかりの片手を顔の前で左右に大きく振った。


「ちょっと、そんなのじゃないからね!」


「そんなのって、どんなのさ」


 もういいから、と顔を赤くした彼は私の隣へ乱暴に腰を下ろす。こういうところが島ノ内くんの可愛いところだ。

 わざとにやにやしながら答えを待つ私に、根負けした島ノ内くんが口を開いた。


「だから、卒業式の日に八子先生から声かけられたんだよ。今までよく頑張ったな、君を誇りに思うよって。そんなこと、初めて言われたから」


 どんどん小さくなっていく声が、むしろ彼がどれほど嬉しかったのかを雄弁に物語る。やるじゃん八子香織。そしてなぜ私に報告しない。

 彼にしてみればかなり恥ずかしい類の告白だったのだろう、急いで話題の転換をしようとする。


「それにしても先生と八子先生ってけっこう親しかったんだね。意外だ」


「こらこら、意外ってどういう意味だ。彼女はさ、うちの学校で唯一の飲み友達なのよ。とりあえず毎月の給料日直後に飲みに行くのはもう恒例行事だな」


「なんか二人の会話が想像つかないよ。八子先生はどこかミステリアスな雰囲気で近寄りがたい人だと思ってたし」


「ミステリアスっていうか、ただ何も考えてないだけね、あれは。二人で話すといえばだいたい学年主任の楠間や生徒指導の安村の文句ばっかだし。いやー、八子先生がやる学年主任の物真似はほんと鉄板だよ。首を傾けながら横髪をしつこく撫でつける仕草は何度見ても爆笑するわ」


 島ノ内くんの上半身が比喩でなくリアルに後ろへと引いた。


「えっ、あの綺麗でクールな八子先生が……。女の人って怖い」


 うんうん、とおもむろに私は頷く。


「今からそれを理解しておくのはいいことだね。ま、女性に対して変な幻想は抱いちゃいかんよ。誰にでも笑顔を絶やさないとか、いい匂いがするとかさ。だいたいねえ、女なんだから部屋はいつも綺麗に片づけなさいとか、ジャージにサンダル姿ではたとえコンビニでも出掛けるなとか、休みの日だからって一日中寝るなとか、早く彼氏くらい作れとか、まったく余計なお世話だっての」


「途中から親の小言に変わってない?」


「細かいことは気にしないの。愚痴くらい吐かせておくれよ……。大人といったって結局いつも誰かに怒られてばかりでさ、職場でも家でも肩身が狭いのなんの」


「間宮先生ってあまりストレスを溜めこまなさそうに見えるんだけどな。やっぱり見た目だけじゃわからないことの方が多いんだね」


 そう言って彼はスポーツドリンクの入ったペットボトルに口をつけた。

 つられるように半分残ったビールを喉に流しこもうとして、すんでのところで思いとどまる。

 私としたことが大事なセレブレーションを忘れていたのだ。

 ぐっとビールのカップを前方へと突きだし、ごほんと咳払いをひとつする。


「では、遅ればせながら島ノ内陸くんの中学卒業と高校合格とを祝しまして。不肖、この間宮夕希が音頭をとらせていただきます」


 芝居がかった私の調子に「お互い飲みかけなんだけど」と苦笑いしながら、島ノ内くんも合わせてペットボトルを上に掲げた。

 よくよく見れば小柄だったはずの彼の目線は、いつの間にか私と同じ高さまでやってきている。この分だとすぐに抜き去られてしまうのだろう。やはり男の子の成長は早い。


「かんぱーい!」


 さながらコンパに参加していた女子大生のときのようなテンションで、ことさらに明るい空気を強調してみせる。

 当の島ノ内くんはといえば、はにかみながら「ありがとうございます」と礼を述べて、一口だけスポーツドリンクを飲みこんだ。


 よく頑張っただなんて言葉では表せないほどの中学生活を、ようやく終えることができた彼に自分はいったい何をしてあげられるのか。

 真夏でも長袖を着用し、絶対に袖を捲ろうとしなかった島ノ内くんの両腕には無数の火傷による痣が残っている。野球部の先輩や同級生によってつけられたものだ。きっと死ぬまで消えはしない。

 長らく不登校だった彼がここまで立ち直るのにどれほど苦悩し、勇気を振り絞ってきたかは、おこがましいようだがよく知っているつもりだ。


 いみじくも八子先生がかけた言葉の通り、私も島ノ内くんを誇りに思う。

 そして彼のこれからの人生が幸多いものであることを心の底から強く願う。

 だからこそ、私にしかできない最後の役割を今夜果たさなければならないのだ。

 グラウンドではようやく球審によってプレーボールが告げられ、ゲームの始まりを迎えていた。

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