3-2

 ぐう、と腹の虫が鳴いたのは間違いなく八子先生だった。

 しかしそこは武士の情け、私も鬼の首を獲ったようにいちいち騒ぎたてたりはしないでおく。

 気づけば壁掛け時計の針は正午を三十分近くも過ぎていた。道理でお腹が減っているわけだ。たくさん体を動かしたわけだしね。

 けれどもその音に気づいたのは私だけではない。


「ごめんなさい、もうすぐできあがりますので」


 キッチンから宮坂先生の声がした。

 本当ならこちらとしても手伝いたいところだが、「お客様なんですから」と彼女に強く言われてしまっては仕方がない。私と八子先生はおとなしくダイニングテーブルに着席して待っている。

 隣の八子先生の顔をうかがってみるとほんのり赤面していた。これはレアだ。


「やっぱり聞こえましたか……」


 うつむき加減のまま、彼女はぼそりと問いかけてきた。

 ラッキーといいこの八子先生といい、今日の私はどうやら「かわいい」に縁があるらしい。これだけでもう充分に「いい休日だった」という満足感がある。


「へ? 何の話?」


 日頃の仕返しとばかりに意地悪してみるのも面白いだろうが、とりあえず今回は普段見せないその可愛らしさに免じてすっとぼけてあげよう。


「いえ、何でもありません。間宮先生は鈍感力の塊だってこと、すっかり失念していただけです」


 こんな憎まれ口を叩かれても今なら笑って受け入れてあげられるというもの。

 おそらく慈愛に満ちた眼差しをしていたであろう私は、青いガラスのコップに注がれた麦茶で喉を潤す。これでもう何杯目だろうか。

 空調が効いているとはいえ、梱包作業を頑張ったためにとにかく汗をかいた。替えのTシャツを持ってきていて本当によかったと思う。ファインプレー、自分。


 対面式キッチンの向こうでは宮坂先生が三人分の昼食を完成させたようだった。

 私たちが来るから気を利かせたのか彼女の両親は外出中で、接客業だという弟さんは仕事へ出かけているのだ。


「簡単なものですが」


 そう言って彼女が運んできたのは一見サラダのような素麺で、いろいろな野菜に加えて上には半熟の卵も乗っている。


「ニース風サラダっぽく素麺をアレンジしたんですか。宮坂先生、やりますね」


 好敵手現るといったところなのか、八子先生は唸るように感嘆している。

 だが私にはそもそも言葉の意味さえわからない。


「ニース風って何さ」


 やれやれとでも言いたげに、八子先生は素麺を指差し「こんな感じです」とのたまいやがった。そんな説明でわかるわけないでしょうが。

 でも、もしかしたら成績の悪い生徒だってこういう一人取り残されたみたいな気持ちなのかも。丁寧さってほんと大事。


「でも、作った側としてもどう言えばいいのか難しい質問ですよね。ゆで卵、トマト、オリーブは使っていますけどアンチョビやジャガイモはありませんし。正しくは『なんちゃってニース風』とするべきでしょうか」


 さすがに宮坂先生は具材の名前をあげてきちんと答えてくれたが、それにしたって私の理解はちんぷんかんぷんだ。

 この際、美味しければ細かい話はかまわないことにしよう。


 最後に着席した宮坂先生に向かって「いただきます」と手を合わせ、六角形の黒い塗り箸をとった。

 まず一口、素麺を口の中へと運ぶ。麺つゆでしか食べたことのない私にとってはかなり複雑な味わいだが、それでも間違いなく旨い。旨いのだけれど。


「どうでしょう。ヴィネグレットソースの酸味をほんの少し控えてみたんですが」


 私にはもう宮坂先生がどこの言葉をしゃべっているのかわからない。専門用語なのだろうか。

 代わりに返事をしたのは八子先生だった。


「素麺との相性を考えるならこれくらいがちょうどいいように思います。正直言ってわたしが宮坂先生と結婚したいくらいですよ。本当に美味しいですから」


「あ、それならわたしも八子先生の手料理を食べられますね」


 こうなるともはや蚊帳の外である。何だかちょっぴり寂しいな。

 けれども心優しい八子先生は私をほったらかしにはしなかった。


「わかりましたか間宮先生、これが料理ってやつです」


「むう。私だって、えーと……土曜出勤の日なんかはちゃんとお弁当作ってるもんね。自分への愛情たっぷりの」


「何が『もん』ですか。しかも『ちゃんと』って。いいところ月に一回程度なのはお見通しですよ。そもそもの話、冷凍食品を解凍して放りこんだだけのお弁当を料理とは呼びませんから」


 痛いところを的確に突いてきた。あの赤面はいったい何だったのかと思えるほどに彼女は手厳しい。

 助けて、という願望を込めた視線を宮坂先生へと送る。


「まあまあ八子先生。わたしだって人のことはとやかく言えません。このアレンジ素麺も千尋から教えてもらったものなので。あ、ちなみに千尋というのはうちの弟の名前です」


 さすがに宮坂先生、私のアイコンタクトにさりげなく反応してくれた。

 それにしても弟さんの話題はこれまでに出たことはあったが、料理男子とは初耳だ。


「へえ、弟さんも料理をするんですか。うむ、優良物件ですな」


「うーん、家では全然しないんですけど」と宮坂先生が苦笑いをみせる。


「あの子、今の職場がレストランなんですよ。それもフレンチの。調理じゃなくサービスとして入ったそうなんですが、小さなお店ですから従業員もオーナーシェフを含めて三人だけらしくて。だからときどきは賄いも作らされるってぼやいてました」


「もしかしてそのレシピが」


「はい。わたしに回ってくるわけでして」


 なるほど、こうやってさらに格差が開いていくわけだ。まったく世の中ってのは不公平にできている。

 まあ、私も少しは料理の腕を磨くべきなのかもしれない。

 誰かに「ご趣味は」と問われたら「はい、料理です。食べてくれる人の喜ぶ顔が好きなので」という模範解答を一生に一度くらいはしてみたいじゃないか。


 しかし彼氏ができないのと料理の腕とはまったく無関係のはずだ。そこは強調しておきたい。

 でなければ隣で無心にニース風なる素麺を食べている八子先生にもとっくに春が訪れているだろうよ。よって等号は不成立である。

 あんたらの性格に多大なる問題があるからでしょ、という内なるツッコミには耳を貸すまい。

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