3章 ドッグ・デイズ

3-1

 猫とはまた異なる、ちょっとごわついた感触の毛並みが新鮮だった。


「おお……おお!」


 宮坂家の玄関先でしゃがみこんでいる私はその感動を思わず声に出してしまう。

 まだ午前中であってもすでに盛んな真夏の暑さのせいなのか、目の前のつぶらな瞳をした犬は尻尾を軽く振るだけでおとなしくしている。

 私に撫でられるがままに。


「この子、全然人見知りしなくて。誰にでもなつくんです」


 どうやら別に私がゴールデンハンドの持ち主というわけでもないらしい。しかし宮坂先生、それでは番犬としての役目を果たせないのでは。


 ラッキーという名前の雑種犬は、彼女がまだ中学生だった頃に庭先へ迷いこんできたのだそうだ。

 子犬だった彼(ラッキーは雄である)の愛らしさに一目でやられた宮坂先生と弟さんが「どうしてもうちで飼いたい」と両親を必死に説得し、以来ずっと家族としてともに暮らしてきたのだという。


 人間ならもう八十くらいのおじいちゃんなんですよ、と彼女は笑った。

 炎天の下で滴り落ちる汗にもかまわず、夢中でラッキーと戯れる私に後ろから鋭い叱責が飛んできた。


「ちょっと間宮先生、言いだしっぺが今からそんな調子でどうするんですか。宮坂先生も遠慮せずびしっと注意してやってください」


 非常に険のある目つきで八子先生が腕を組んでいる。

 それを受けた宮坂先生は慌てて「ごめんなさい、こんな場所で」と言いながら玄関のドアを開ける。

 私たちが来るということで充分に空調を効かせていたのだろう、流れ出てきたひんやりとした空気が熱を持った肌に溶けていく。

 けれども私はラッキーとの触れ合いタイムが終わってしまうのをよしとしない。


「えー、でも大きな荷物を持っていくわけじゃないんだし、三人で取りかかればそんなの楽勝でしょ」


 そう、私と八子先生は実家から出ていく宮坂先生の荷作りを手伝いに来たのだ。

 出ていくといってもネガティブな話ではない。

 この秋、大学時代から八年間も付き合っていた彼氏とようやく結婚することとなり、その人と暮らす新居に式を挙げるより一足早く越していくのである。


 といっても電化製品は新しく買い揃えるそうだし、必要な家具の類は既にお父さんと弟さんとで運びこんだというから、手伝いといってもそれほどやることはないはず。

 そんな遊び半分な気分だった私に対して八子先生は手厳しい一言を放つ。


「引っ越しをなめるな」


 何もわかっていない、とでも言いたげに彼女は頭を振った。


「これだけの量ならすぐ終わる、そう高をくくってのんびりしていた人間はほぼ例外なく間際まで梱包に追われることになります。学生時代にわたしは二度引っ越しを経験しましたが、そのどちらも業者のトラックがやってくる前の日は徹夜となりましたので」


 あんたの失敗談からきた忠告だったか。

 しかし少しのことにも先達はあらまほしきことなり。実家暮らししかしたことのない私や宮坂先生に比べるとその経験値は雲泥の差であろう。

 頭ではそう理解しつつ、断腸の思いで私はのろのろと立ちあがった。


「私にラッキーを見捨てていけと、冷徹になれと。そういうことなのね」


「この子にしてみればむしろ迷惑していたんじゃないでしょうか」


 ねえラッキー、と近寄ってきた彼女が背中にそっと手を置く。身を委ねるように目を細めたラッキーの、今度は顎下を柔らかくくすぐっていく。

 その恍惚とした表情、彼はわずかな時間で八子先生のテクニックによって骨抜きにされてしまったように見える。

 何だろう、この気持ち。自分が片思いしていた人を親友に寝取られてしまった、そんな残酷な敗北感に打ちのめされてしまう。


「ラッキー、私とのことは遊びだったの……?」


「どちらかといえば間宮先生は一方的に想いを寄せるストーカーですね。さ、くだらないこと言ってないでとっとと入ってください」


「へーい」


 ラッキーに向かって「また後でね」としばしの別れを告げ、宮坂先生がドアを開けて待ってくれている玄関内へと足を踏み入れた。


「では、おじゃまします」


「はい、いらっしゃいませ。今日は暑いなか本当にありがとうございます」


 そう言って宮坂先生は丁寧に頭を下げる。


「気になさらないでください。彼氏もいない間宮先生の休日はいつだって暇を持て余しているんですから」


「あんたが言うか。自分を棚あげするなんて教師の風上にも置けないね」


「ぐうたらして貴重な休みを無駄にしているだけの人と一緒にしないでほしいです」


 靴を脱ぎながらこのようなやりとりをしている私たちを、宮坂先生はにこにこしながら眺めていた。その柔らかな笑顔は異動となってからも何も変わっていない。

 この人はもうすぐ私の知らない男の人と結婚し家庭を持つのだ、そんな思いが唐突に頭をよぎった。

 そこからまた人生の新たな章と呼ぶべき暮らしが始まるわけで。とてもじゃないが今の私にはまるで現実味のない、遠い世界での出来事のようだ。


 未知の海へと二人乗りの小さな舟で漕ぎだしていく。

 そんな友人に私がしてあげられることは何か。幸せな航海となることを願い、できるかぎりの手助けをするくらいのものだろう。

 宮坂先生に案内されて彼女の部屋に着くなり、羽織っていた半袖のリネンシャツを脱いだ私は、下に着ていた五分袖のボーダーカットソーの袖をむん、と気合を入れて捲りあげる。

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