7-2
年季の入った木製の扉をゆっくり押し開けると、かららん、という涼やかなドアチャイムの音がした。
これを聞くたび「わー、喫茶店の音だ」と思ってしまうのは私だけだろうか。
何せ家から徒歩圏内にあるこの店には、私がまだ小学生にもならない頃に両親に連れられて初めて来たのだ。それ以来、いったいどれほどお世話になったことだろう。脳に刷り込まれてしまっているとしても不思議ではない。
日曜日の朝だからなのか、コーヒーの香り漂う喫茶店は半分ほどの客の入りだった。カウンター席とボックス席とに分かれている店内の一番奥、そこに彼女たちが座っているのはすぐにわかったのでずんずんと進んでいく。
月に一度、いつの間にか恒例となった集まりだ。
なぜだか夜ではなく朝なのも、今となっては健康的でいいじゃないかと肯定的に捉えている。
「お待たせー」
軽く手を上げて席につこうとしたジャージ姿の私に、いい年をした二人の女、四条香子と鏑木佐智が水を得た魚のごとく絡んできた。
「十分遅刻でーす。おっと、言ってる間に十一分」
「はい間宮、罰として外回り五周ね」
まったく、いくつになってもこいつらは勝手なことばかり抜かしやがる。
「中学生かあんたらは。シーちゃんも鏑木も少しは大人になれ」
「んぐ、大人はそもそも遅刻しないもんでしょ」
サンドウィッチを小さな口でかじり、アイスコーヒーにシロップをどぼどぼと注ぎながら鏑木が正論を言う。
少し前から彼女の風貌は劇的な変化を遂げていた。さらさらの長い黒髪、どう考えても不釣り合いなはずのワンピース、私が狙っていたものとほぼ同じデザインの可愛らしいミュール。おまけに黒縁の眼鏡ときたもんだ。
パッと見だけならどこぞの良家のお嬢さまかと思ってしまう。
「ねえ、遅刻して謝りもしない教師って何のために生きてんの? 世の中に必要?」
まあ残念なことに、口の悪さにはいささかの変化も見られないわけだが。
「黙れ鏑木。そのモーニング食べたらとっとと家に帰って大好きなアニメでも観てろ」
「あ? おまえ今アニメをバカにしたのか?」
「違う。バカにしたのはあんただけ」
そうなのだ。三十路の大台に乗ったあたりから鏑木は突如としてアニメーションに傾倒しはじめた。
別に他人の趣味が何であろうと、迷惑をかけさえしなければ構いはしないというのが私のスタンスではあったが、あの鏑木がアニメにはまるとなると話は別だ。
どうせまたくだらない失恋事情があるんだろうな、とにらんだ通りだった。
「二次元は裏切らないから」
最近のやつはことあるごとにこのセリフを吐く。もういいかげん、三次元における報われなさに愛想が尽きたのだという。
気持ちはわからないでもないが、鏑木の場合は明らかに代替行為としてアニメを選んでいるところに私も首を傾げてしまうわけだ。
しかしアニメにおいても鏑木の選球眼は健在だった。
「間宮ならこのへんが合うと思うよ」と勧められたいくつかの作品はたしかに面白かった。そう認めてしまうのは何だか負けた気がするけれど。
「えー、じゃあカブはもうリアルの男性には興味ないの?」
「ない。これっぽっちも」
シーちゃんからの問いかけに鏑木が即答する。
「そっか、残念。今度うちの女の子がセッティングしてくれた飲み会に誘おうと思ってたんだけどなあ。向こうは前途有望な大学生よ大学生」
若いツバメってもう死語なのかな、とシーちゃんがけらけら笑う。
四条香子、彼女は離婚して旧姓に戻っていた。シーちゃんいわく、
「ツーアウトまでは我慢した。でもスリーアウトになればチェンジでしょ。それがこの世のルール」
ということだったらしい。浮気の人数だ。今まで何度か彼女の元夫と会う機会もあったけど、そういう人にはまったく見えなかったのだが。
まあ、これはただ単に私にも見る目がないってだけの話かもしれない。
でもその後が彼女と鏑木との著しい差となる。
行き当たりばったりに流されていく鏑木とは対照的に、地元へ帰ってきたシーちゃんはすぐに起業したのだ。
運転資金は元夫からの慰謝料とのことだ。いったいどれくらいの額なのかは怖くていまだ聞けずじまいである。
彼女はまず場所を用意した。
いろいろなものを丁寧に作っている人たちを結びつけていく、そういう場所を。
それはたとえば麻の織物であったり、竹の家具であったり、ブリキの看板であったり、折り紙のアートだったり。
営業形態としては一応カフェということなのだが、こじんまりとしたギャラリースペースでそういったものを常に並べている。
あの鵜野シェフもやってきて、「これはぜひうちで使いたいな」とすぐコンタクトをシーちゃんに依頼してきたのだという。
相手はまだ駆け出しの陶芸作家さんだったそうだ。
もう一度結婚する気はさらさらないなあ、と彼女が言うのもわかる気がする。人と人を繋げていく仕事が楽しいのは当然だろう。
ちなみに余談と呼ぶのもはばかられるくらいな話ではあるが、鏑木セレクトによる本棚も意外に好評らしい。もういっそのこと本ソムリエでも名乗ってみればどうか。正しくはソムリエールだな。
「じゃあマミーはどうする? 行くよね?」
「うーん、私もパスだね」
「えええ、そんなのあたしがつまんないよー。一緒に行こうよー」
駄々をこねる子供のごとく食い下がってくるシーちゃんをなだめていると、向かいで鏑木が何ごとかをぽつりと呟いたようだった。しかし声が小さすぎる。
「ん、なに? 鏑木さーん、もっとはっきりしゃべってくれなきゃ聞こえませーん」
耳に手を当ててここぞとばかりに煽る私。
いつもであれば即座に毒々しい切り返しをしてくるはずが、今回に限ってはまったくのノーリアクションである。
代わりにやつは華麗なまでに前言を翻してみせた。
「──行く。這ってでも行く」
力強く言い切った彼女の目にはぎらついた光が戻ってきていた。
こいつはいつか恋愛で溺れ死ぬんじゃなかろうか、と思うのももう何度目になるかわからないが、それもまた一興。それでこそ鏑木佐智だね。
中学時代には彼女たちとこれほど長い付き合いになるなどと想像もしていなかった。というより、未来を想像する行為自体がさほど現実味を持たず、たくさんの分かれ道を無作為にぼんやりと眺めているに過ぎなかった。
十代だった頃の私にしてみれば三十一歳なんて大人も大人、常に毅然と颯爽と、そんなイメージを抱いていたものだがいざ現実となってみれば思い描いていたのとはだいぶ勝手が違う。
いまだ私たちはただただ未熟だ。
何度も何度もエラーを繰り返し、そのたびに不格好ながらまたやり直していく。トライアル・アンド・エラーの日々。
でも、自分が選んだことの結果は腹を括ってきちんと受け止める。そこだけは子供時代と違うんだって胸を張って言いたい。
他の誰のせいでもなく、私が行き先を選んで決めて歩いていく。
途中で横殴りの風が吹きつけてきても、落とし穴が待ち構えていても、誰だってそんなのは事前にわかりっこないのだ。
きっと人生はそういうものでしかないのだから。
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