7-3

 一足早く喫茶店をお暇した私が向かったのは勤務先の中学校である。

 教員になってから三つめとなる赴任校で、初めて女子ソフトボール部の顧問を務めることとなった。

 いろんな先輩方から聞いてはいたが部活動の顧問、特に体育会系となれば土日などはほとんどないも同然だ。加えて給料にも反映されない。


 それでもやりがいと呼べるものはあった。

 普段は「練習しんどいー、いやだー」とぶつくさ文句を言いながらスマホをいじっているような子たちが、いざ練習や試合となれば真剣な眼差しでボールに集中しているのを見ると、どうにか成長する手助けをしてあげられればいいなと思う。

 壁を乗り越える喜びを伝えたいのだ。


「次ショート行くよ! 6―4―3のダブルプレーね!」


 私がノックした打球にショートの子が必死になって飛びつく。

 昨日は他校での練習試合があったのだが、しばらく不調に悩んでいた彼女は攻守に渡って大活躍を見せてくれた。

 本当に、子供たちというのはあっという間に伸びていく。


 教師とは若い世代を教え導く存在だ、そう考えている人は多い。

 けれども私の見方はちょっと違う。

 いつだったか香織が言っていたように崖から落ちそうになっている子の手をつかむこともあれば、壁をよじ登ろうと悪戦苦闘している子のお尻を軽く押してあげることもある。

 少年少女たちがどんな大人になっていくにせよ、ほんの一部の期間に接する教師にできるのは生きる力を引きだす手助けを全力でしてあげるくらいのものだ。


 昼から始まった練習は十六時になるとともに終了となった。

 部員たちと一緒に片付けやグラウンド整備を行っていると、一人の子が「ねーせんせー」と近づいてきた。


「昨日お話してた人って友達なの?」


「ん、そだよ」


 その子の問いに頷いてみせる。

 昨日の練習試合は相手校のグラウンドで行われており、現在その学校には雫さんが赴任中なのだ。

 みんなが「いっくん」と呼んで可愛がっている息子の樹くんを連れて、彼女は土曜日にもかかわらず学校へとやってきていた。


「だってうちの人、休日出勤なんですもん」


 口を尖らせていた彼女だったが、その顔は笑っていた。


「おかげで夕希さんの学校との練習試合を観に来られたんですけどね」


 でも応援はうちの生徒たちの方ですよ、と付け加える。

 かつて互いの名字に「先生」をつけていた私たちは、香織の結婚を機にそれぞれ下の名前で呼びあうようになっていた。


「八子先生じゃなくなるし、鵜野先生と呼ぶのも慣れるのに時間がかかりそうだし。もういっそ香織先生でいい?」


 結婚式後にしばらくしてから冗談半分で訊ねた私に対し、「でしたら香織だけでもかまいませんよ」とこともなげに彼女は答えた。

 これを受けて過敏に反応したのが雫さんだった。


「ずるい! ずるいです!」


「ずるいって、何がですか?」


「仲間外れ禁止、わたしのことも下の名前呼びに変えてください!」


 とまあ、こんな経緯である。

 当時はまだ若手のつもりでいた私たちも今や全員三十代。生まれてすらいなかったいっくんももう四歳が近づいてきているのだ。月日が経つのはまことに早すぎるぜ。

 あくまでソフトボール部の活動中ということもあり、しばらくぶりに会った雫さんとは互いの近況報告をした程度だった。

 ただし近いうちに私がお宅訪問することとなったので、そのときにいっぱい話そうと思う。近頃野球に興味を持ちだしたらしきいっくんもかまい倒してあげよう。


 ちなみに千尋くんはまだこっちに戻ってきていない。

 香織によれば一度そういう話になりかけたらしいのだが、鵜野シェフから「中途半端なことをするんじゃねえ!」と一喝されたのだとか。

 それを受けての千尋くんの返答が最高なのだ。


「じゃあ、〈ポワソン・ダヴリル〉をシェフとおれとで世界一のレストランにできると思ったら帰ってきます。それでいいすか」


 面と向かってのこの啖呵にはさすがの鵜野シェフも度肝を抜かれただろう。だってあの千尋くんのことだ、間違いなく本気で「世界一」と口にしたはずだから。

 みんな変わっていく。もちろんそれは悪いことではない。

 生きている以上、変わっていくのは当たり前のことであり、何も変わらないのだとしたらそれははたして生きていると言えるのかどうか。

 私たちの人生は思っているほどに長くはないんだ。


 香織だってそうだ。彼女は二年前、教員を退職した。

 相当に悩んでいたし私も何度か相談に乗ったが、「浩一郎さんを支えてあげたいんです」という彼女の希望を考えれば結論はすでに出ていた。


 ときどき、自分が消去法のようにして教師になるのを決めたことを思い出す。

 だけど意外なほど性に合っていたというか、きっとおばあちゃんみたいな年になるまで教壇に立ち続けて、たくさんの子たちが大人になっていく道の途中でもがいて頑張る姿を見届けるのだろう。

 まあ、悪くないよね。


 部員たちを見送った私も急ぎ足で学校を後にする。

 約束の時刻は十七時半、アトライト・スタジアム前にあるボール型の時計の前で。どうにか間に合いそうだ。


 ちなみにジャージ姿ではない。白のサマーニットの上からデニムジャケットを羽織り、下はオリーブのクロップドパンツ。朝の私からはフルモデルチェンジである。

 どれだけジャージが好きで落ち着くスタイルであっても、さすがに彼氏と会うときには選べない。鏑木やシーちゃん相手ならともかく。

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