7-4
「先生、うどん買ってきたよ」
両チームのスターティングメンバーがアナウンスされてスタジアム全体のボルテージも上がっていく中、温かいうどんの入った発泡スチロールの容器をを二つ手に持った島ノ内くんが戻ってきた。
荷物番をしていた私はすぐに鞄をのけて彼の座席を空ける。
「ありがとー。やっぱ夜になればちょっと冷えるわ」
「まだ四月になったばかりだもんね。でもすぐに夏が来るよ」
隣に腰かけた彼が柔らかく微笑んでいるが、その目は中学生のときよりもだいぶ高い位置にある。私の背丈などもうとっくの昔に追い越されていた。
「あ、先生の好きな志貴原選手が今日はスタメンか」
「同い年だし、年にいっぺんくらいものすごいホームランを打つからねえ。しかもエース級から。あの未完の大器っぷりがたまんないのよ」
「じゃあ先生、誕生日プレゼントは志貴原選手のレプリカユニフォームでいい?」
「それはいらん」
島ノ内くんはいまだに私のことを「先生」と呼ぶ。以前にどうしてなのかと訊ねた際、「だって先生は先生だから」というのが彼の答えだった。
現在、大学の教育学部に籍を置く島ノ内くんには翌月からの教育実習が控えている。
「ぼくは先生みたいな先生になりたい」
まるで口癖のように彼は言う。
それはとても怖いことなのかもしれない、とたまに思ってみたりもするわけで。だって私みたいな人間が島ノ内くんに決定的な影響を与えてしまったわけなのだから。
そんな話を一度香織にしてみたことがある。
「自分のこととなると案外意気地がないですよね」
返ってきたのは辛辣な言葉だったが、彼女が口にするとどこにも揶揄する響きがない。だから私も素直に「……はい」と頷いてしまうのだ。
「いいじゃないですか。それに夕希さん、あなただって島ノ内くんに人生を動かされてしまったんですよ? まったく自覚がないわけでもないでしょうに」
振り返って考えてみればあれはまるで予言のようだったな。
ちょうど一週間前、私は島ノ内くんからプロポーズされた。
「大学を卒業したら、ぼくと結婚してください」
何の飾り気もない直球に思わず私はのけぞってしまう。
予期していなかったわけじゃない。付き合いだした時点で「もしかしたらそういう日がいつかやってくるのだろうか」くらいには考えていた。
だが彼も、そして私自身も、間宮夕希という人間の素直になれなさ加減を甘く見積もっていたのだ。意気地がない、いみじくも香織が指摘した通りである。
本心に従えば「こちらこそよろしくお願いします」と答えるべきだったのに、とっさに出てきた私の返事は「えー、まだあれから十年経ってないしぃ」であった。
そう、私はずっと覚えていた。もしぼくが十年後も変わらず先生のことが好きだったら、という彼の言葉を。
なのにそれを茶化してしまった自分に、世界中に存在するありったけの罵詈雑言を浴びせかけてやりたい。
島ノ内くんは「もちろん待てるよ、でも」と言葉を継ぐ。
「十年後まで待ったら先生はさんじゅう──」
「だあっ、それ以上は何も言うな。命が惜しくばな!」
私の必死の警告にもかかわらず、島ノ内くんはあっさりと続きを口にした。
「三十五歳になってるけど、いいの?」
「はっきり言わないでよお……」
頭を下げ、彼には少しだけ返事を待ってもらうことにした。迷っているわけではない。返事はもうとっくに決まっている。
ただ、その道を歩む覚悟を固めるための時間をもらったのだ。十歳も年上なのに情けない話ではあるけれど。
いつもと変わらぬ穏やかな表情で隣にいる島ノ内くんも、内心ではきっと「どんな答えが返ってくるのだろう」と不安多めのどきどきを感じているに違いない。
ごめんね。
「結局、ぼくは先生以外の女の人を好きにならなかった。なれなかった」
淡々と、どこか遠くの出来事を語っているようだったそのときの彼の横顔が重なるように像を結ぶ。静かな口調だからこそ私の心に深く刺さった。
きっと死ぬまで宝物のように大切に扱うであろう言葉をたくさんくれた彼に、私は何と答えればいいのだろうか。ありきたりな返事でいいのかな。
グラウンドではプレイボール、という球審のコールとともに試合が始まった。
これからだいたい三時間をかけてひとつのゲームが生まれ、終わっていく。始まり方も幕の閉じ方も千差万別だ。
六年前、ひとつの試合とともに私と島ノ内くんの関係も教師とその生徒という役回りをはみ出すことなく終わりを迎えたはずだった。
なのに今、こうして新たな関係が結ばれようとしている。
数え切れないくらいの始まりと終わり、そしてまた別の始まりが私の人生に満ちているのは意識すればするほど不思議でしかない。
もちろん私に限った話ではなく、誰だってそうなのだけれど。
いつか私は死ぬ。
それは避けようのないことだし、いつやってくるのかもわからない。
ずずっ、とうどんをすすりながら父の葬儀があった日を不意に思い出す。
とても冷え込みの厳しい日で、火葬を終えた後に放心したままうどんを少しだけ口にしたのだが、場違いにさえ感じられたその温かさだけがなぜかはっきりと記憶に刻まれている。
あれから十年が経とうとしている今でも、仏壇の前に座った母が泣いているのを目にしてしまうことがある。
そのたびに私は見てはいけないものを見てしまったような感覚に捉われるのだ。
だけど哀しいものが悪いわけじゃない。かつてそこにはたしかに温かいものがあったからこそ、私たちはあまりの懐かしさに涙をこらえきれなくなってしまうんだ。
「わっ、先生どうしたの」
そう言いながら顔を近づけてきた島ノ内くんが、私の目元をそっと指で拭う。
知らない間にまた泣いていたのか、私は。
大丈夫、とか、目にゴミが入っただけだから、などと答えるかわりにうどんの入ったカップをそっと下に置く。
そして黙ったまま彼の手首を無造作につかみ、そのまま体ごとぐいっと引き寄せた。
「私より先にいなくならないでよ」
彼の体温を感じながら、耳元で色気も何もない返事をささやいた。
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