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 本当は読書が好きなパリの不良少年の隠れ家。そんな印象を私はこのお店に抱いた。もちろん店側のコンセプトとはまったく違うんだろうけど。

 一軒家を改装したレストランの店内にはテーブルも三卓だけしか置かれていないため、さほど広くないスペースであってもとてもゆったりと感じられる。


 もしかしたら海外で買いつけてきたのだろうか、そんなふうに思わせる真鍮の照明が天井から吊られており、アンティークな雰囲気を漂わせる焦げ茶色のテーブルに柔らかく光を当てていた。

〈ポワソン・ダヴリル〉、それがこのレストランの店名だ。フランス語で「四月の魚」を意味するこの言葉は、英語だと「エイプリル・フールズ・デイ」、つまり四月一日となるらしい。

 なぜそのような呼称になったのかは諸説あるそうだが、いずれにせよそれを店の名前にしてしまうあたりに、オーナーシェフの人を食った性格が垣間見える。


「ちょっと間宮先生、恥ずかしいからあまりきょろきょろしないでください」


 隣に座る八子先生から冷たい視線を浴びせられてしまった。


「いや……だって私ら普段こういうところに行かないじゃない? 恥ずかしながら不肖間宮、もう場の空気に呑まれてるのよ、どっぷりと」


「まったく、口だけ番長なんですから」


 そう言ってあからさまにため息をついてみせる彼女の右手前には、細長いフルートグラスに注がれたスパークリングワインが置かれていた。同様に宮坂先生のところにも。本日の運転手である私の前だけガス入りの水である。

 続いて八子先生は「ほら」と促してきた。私も軽く頷き、姿勢を正す。それから炭酸水の入ったグラスを手に持った。


「宮坂先生」


「はい」


「ご結婚、おめでとうございます」


 同じく八子先生が「おめでとうございます」とにこやかに祝福する。

 まだ一緒に暮らしておらず、式を挙げるのも少し先なのだが婚姻届はすでに出している、と宮坂先生自身の口から私たちは今日聞かされたのだ。

 何でも八年前に二人が付き合いだした記念日がつい先日だったらしい。これからその日は結婚記念日にもなるわけだ。


「え、え?」


「今日は私たちからの簡単なお祝い、ということで」


 その言葉に、向かいに座っている宮坂先生は困惑しているような、それでいてはにかんでいるような表情を浮かべている。

 八子先生が言う。


「間宮先生が『そのお店に今夜行こうよ』と提案してきたときは、てっきりいつもみたいに気まぐれな思いつきかな、と」


 おいおいその扱いはどうなの、という私の抗議はあっさり黙殺されてしまった。


「けれどわたしとしても、こういう場を設けることができて本当にうれしく思います。できればお相手の方と一緒に暮らしだしてからも、時々はこうやって会っていただれば」


「あの、それはむしろわたしからお願いしたいです」


 そう言って宮坂先生はグラスを両手で持つ。


「いいのかな、こんなに幸せな気持ちになってしまって」


 グラスに口をつけた宮坂先生の目は少し潤んでいるみたいだった。私より二つ年上なのに、その姿はどことなく少女のようにも見える。

 一年前の夏には、彼女とこんなに親しくなれるだなんて想像したことさえもなかった。あのバレンタイン・デイに向こうから一歩を踏みだしてもらえなければ、結局互いに関わることはなかったはずだ。


 他者と繋がっていくことはとても簡単で、とても難しい。まるで禅問答のごとく私は思う。

 結婚だってそうだ。一口に「八年間の長い付き合い」と言ってしまうのはたやすいが、そこにはいったいどれほどの出来事があったのだろう。

 もう別れよう、となってしまったことだってきっとあったに違いない。


「いいに決まってんだろうが」


 突然、ぶっきらぼうな声がした。

 声の主であるサービスの千尋くんが、三枚の小さな皿を両手に持っていつの間にか彼の姉の傍らに立っていたのだ。

 今夜は私たちのテーブルが一番乗りであり、他の客はまだ誰も来ていない。


「失礼いたしました」


 一転して彼は接客のプロといった笑顔に変わる。


「こちらはコース前のアミューズ、地元産の茄子をフラン仕立てにした一口オードブルでございます」


 それぞれの席にある大きなガラスの飾り皿の上に音を立てることなく配られていく。指先にまで客からどう見られるか神経を使っているのだろう、とても優雅な手つきだった。比べるのも失礼な話だががさつな私とはえらい違いである。

 とはいえ、若い千尋くんは先ほど姉の宮坂先生にかけた言葉からもわかる通り、時折あのような本音がこぼれでる。

 私たちが来店したときもそうだった。


「三名で予約した間宮でーす」


 今日の昼すぎの連絡だったにもかかわらず席が取れたのはどうやら運がよかったらしい。直前にキャンセルが出たから大丈夫だと電話向こうの店員が言っていたのだ。あれもきっと千尋くんだったのだろう。

 私を先頭にして入ってきた三人組の女性を、白いシャツに黒いベスト、そしてネクタイを締めたいかにもギャルソンといった風の青年が出迎えてくれた。


「十八時に三名でご予約の間宮様でございますね。お待ちしておりました」


 だがこの直後、最後尾の宮坂先生を目にした彼の表情は「げっ」と口走って大きく崩れた。


「マジか、お姉ちゃんかよ」


「はーい……お姉ちゃんです……」


 小さく胸の前あたりに手をあげ、宮坂先生は心許ない返事をした。

 人のいい彼女のことだ、「来るな」と言われていたのに来てしまった、そんな引け目があるのだろう。

 それでも千尋くんはすぐに動揺を立て直したようだった。


「では、お席へご案内いたします」


 そうして奥まったテーブルに着席した私たちだったが、千尋くんについてのあれこれを宮坂先生に訊ねる間もなく、この店のオーナーシェフがわざわざ挨拶に訪れたのだ。


「千尋のお姉さんとそのご友人だそうで。初めまして、この店のオーナーシェフである鵜野浩一郎と申します」


 噂に違わず、鵜野シェフはまさしく熊だった。とにかくでかい。縦にも横にも。

 職業はプロレスラーです、と言われたほうがよほどしっくりくるんじゃないだろうか。

 今は厨房で調理に集中しているであろう鵜野シェフの強面フェイスを思い出しながら、アミューズの皿に添えられているスプーンで茄子のフランとやらを掬う。

 窓の外ではまだ日が沈みきっていない中、こうして私たち三人のにぎやかな真夏の一夜は始まった。

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