第19話
凪
※
その想いの意味を私はよく分かってない。
どうしてあこがこんなことを言い出したのか、伝えてもらったことも全然わかってないし、納得してない。
急に豹変したみたいに、酷いことをべらべらと喋り出して、その癖、泣きそうな顔ばかりして。自分の言ったことに自分で傷ついてるようにさえ見える。
でもその心の奥底は、かき混ぜた泥みたいに澱んで濁ってよく見えない。あこ自身がぐちゃぐちゃにかき混ぜて、あえて見えないようにしてる感じもする。
わからない、わからないから。私はそのままに受け止めることにした。
「じゃあ、襲えば? 今、ここで」
ただ、わからないなりに、気づいてることは一つだけある。
今、この子の手を離したら、きっとこの先、生きてる間、私はずっと後悔し続ける。
今、この子から距離をとってしまったら、あこの傷はずっとこの形のままなんだ。
誰かと触れ合うたびに、誰かに自分の姿を見せるたびに、ずっと怯えて震えて過ごすことになる。いつかの私がそうだったみたいに。
それだけはわかってた。
だから、離してなんてやるものか。
可哀そうだけど、こんな悪い大人に捕まったのが運の尽きだと想いなさい。
「私は別に、それでいいよ」
まっすぐ見つめる私の視線に、あこは泣きそうになりながら、どこか怯えた顔をしていた。一体、何に怯えているのかは、まだよくわかっていないけど。
その泣きそうな顔を放っておくことだけは、どうしたってできないから。
※
愛心
※
その瞳は私をまっすぐ見つめてた。
怒ってるようにも見えるし、悲しんでるようにも見える。でも、一瞬だって私から視線を逸らしてはくれない。
私はその顔を少し見ようとするだけで、精一杯なのに。
「どうしたの、襲わないの?」
そんなこと言わないで。
「ああ、私が服、脱いだらいいの?」
そんなことしないで、向き合わないで。
見逃して、見過ごして、気づかないまま私を捨てて。
それでいい、それだけでよかったのに。
ただそうしている間にも、なぎさんは寝間着のボタンを外すと、するすると服を脱いでしまう。
寝間着が落ちて、ブラジャーが落ちて、最後にナプキンが付いたショーツが落ちた。それから、紅い染みが少しそこから垂れ落ちてた。
生れた姿のままのなぎさんが、じっと私を見つめてた。
「ほら、脱いだよ。襲ってくれるんじゃないの」
だめ、近づかないで、触れないで。
風呂場の敷居を素足のまま、何気なく越えて、まだシャワーが流れ落ちるここまで平気で入ってくる。
私が必死に自分を知られないために、敷いていた境界が何もないみたいに簡単に超えられる。
胸がずっと、ずっと痛い。息も意味わかんないくらいに早いし、さっきから頭がずっとパニックで止まらない。
視界に映る肌色が何度も記憶とリフレインして、溢れ出るまま止まらなくなる。
「触らないの? 触りたかったんでしょ? さっきそう言ってたじゃん」
なぎさんはそう言って、私に向かって手を広げた。晒した肌を、大事な部分を、どうした触れないのかと、問うてくる。
私はそれに何もできないまま。
嘘、だってできるわけない。
そんなことしたら、なぎさんを―――。
「………………」
私が何もできない間に、なぎさんは両手を広げて、全部を晒してちょっとずつ近づいてくる。
ざあざあ流れる、シャワーの中をぴちゃ、ぴちゃって足音だけが響いてる。
胸が痛い、身体が痛い、頭の中は、ずっとなんでなんでって言葉ばかりが溢れてる。
あと一歩で肌が触れるってくらいの場所で、なぎさんは立ち止まって。
それからそっと、私の顔の方に手をゆっくりと持ち上げた。
あ、やだ。
そう想った時にはもう遅くて。パンって短い音がして、ナギさんの手を弾いてた。冷えてるのに強く打ちあった手がどうしようもないほどに痛んでくる。
なんで、どうして。
なんで、私なんかにこんなに構うの。
「なんでこんなことするの?」
漏れ出た声は自分の声かもわからないくらい、がらがらで。
「あこが何考えてるかわからないから」
なぎさんの顔を全然見れない。
漏れる声が涙で震えてみっともない。
「何考えてるかなんてさっき言ったじゃん。酷いことだよ、私が今までされてきたこと全部だよ! それをなぎさんにしたいって思ってるの!」
たくさんの人がしてきたこと、暴力的で無理矢理で、私のことなんて何にも考えないで欲だけぶつける、そういうこと。そんなの絶対に許されないこと、相手を傷つけてもうずっと嫌われて、私なんか見てくれなくなるような、そんなこと。
「だから、していいよ?」
なのに、なのに、なんでそんなこというの!!
ああ、もう、全然、全然、わかってくれない!!
私が、こんなに―――! こんなに――――!!!!
「わかってよ!!
したくないの!!
なぎさんに酷いことなんて、したくないの!!
なのに私考えちゃうの!!
ずっと、ずっと、なぎさんとそういうことすることか!!
最低なの!! 自分がされた癖に、そんなこと想う最低な生き物なの!!
自分で毒を振りまいて、自分で誰かを食い物にして、もうダメなの!!
ずっと、ずっと、なぎさんを滅茶苦茶にすることしか考えられないの!!
そんなこと考えて、何度も何度もなぎさんがいない間独りでしてたの!!
我慢しようって、もうこんな酷いこと考えないようにしようって思っても、全然止まってくれないの!! 自分がどれだけ酷い奴がわかっちゃったの!!
そんなのが苦しいの! 死にたいくらい、苦しいの!!
だから、お願い! わかってよ!!
今、私と一緒に居たら、きっといつかそういうことになっちゃうの!!
そしたらなぎさんに嫌われちゃうでしょ!!
なぎさんに嫌われるくらいなら、もういない方がずっとマシなの! 独りのほうがずっとマシなの!!
やっとやっと一緒に居ていいって想えたのに、こんなことでぶち壊してる私が一番嫌いなの!!
なぎさんがしてくれたこと全部無駄にしてるのだって、こんな私、死ねばいいって本当に想うの!!
だから、だからなぎさんほっといて! 私、勝手にどっか行くから!!
どうせ嫌われるなら、もう会わないほうが、ずっといいから!!
だから、お願い! ほっといて!!
わかったでしょ!! わかってよ!!
私は!! もう!! こんな自分のままここにいたくないの!!」
頭が熱い。
叫びすぎて喉がガラガラで。
涙も零れすぎて、眼から鼻からぐっちゃぐっちゃで。
悲しいくらいに、自分の言ってることもぐっちゃぐちゃで。
情けなさ過ぎて、笑えてくる。
嫌われるから怖いとか、バカじゃんね。
こんなこと言っちゃったら、もうとっくに嫌われてるに決まってるのに。
ああ、ああ。
そっかあ、私、なぎさんに嫌われちゃうのか。
やだなあ。やだ。嫌いにならないで欲しいのに。
でも、私がこんな風に生まれちゃった化け物だから、仕方ないかなとも想っちゃう。
いやで、いやで仕方がないのに。
まあ、こんな化け物だし。
そうだよね、仕方ないよねって。
そう気づいちゃったから。
何時の間にかへたり込んで、喉から漏れ出る音は、全部泣き声に変わってて。
あーあ、裸でこんなに泣いて、まるで赤ちゃんか何かみたい。
うそ、もうすっかり大人だって想ってたのにな。
中身はダメダメじゃん。身体だけ大人になって、中身は子どものままじゃんね。
はは、なにしてるんだろ、ほんと私。
こんなみっともないとこ、なぎさんに晒して。
でも泣き声は止まってくれなくて。
がらがらの声はみっともなくて、喚く顔はきっと酷いくらい不細工で。
こんなやつ、なぎさんが好いてくれるとこなんて、一個もないよ。
なんで、なんでかなあ。何か悪いことしちゃったかなあ。
ただ好きになって欲しかっただけなのに。
ただ好きって想ってること、知って欲しかっただけなのに。
それが怖くて怖くて仕方なくて。
誰かを好きになるなんて、当たり前のこと一つできやしない。
なんで、なんでこんなふうに生まれちゃったんだろう。
なんで私ってこんなカタチをして生まれちゃったんだろう。
ほんと、なんでなんだろう。神様、私、何か悪いことしたのかな。
酷いじゃん。こんなイジワル、しなくたっていいじゃんか。
どうしよう、泣きすぎて、なぎさんの顔が上手く見れないよ。
なぎさんが言おうとしてる、言葉の一つも聞けないよ。
逃げることも、いなくなることも、縮こまることすらできないよ。
怖いことばかりで、できないことばかりで、そのくせ要らないものばっかり、たくさん持ってて。
そんなんだから、人を好きになることすら、できないんだよ。
ごめんね、なぎさん。
こんな私に生まれてきちゃって。
「ごめんね」
感触。
が、あった。
柔らかくて。
少し濡れてて。
暖かくて、息づかい一つ一つまで感じられて。
身体の奥が少し暖かくなるような気さえして。
そして、どこか甘くて。
‥‥…………え?
今、え?
私、今、え?
あれ、なぎさんに、何されてるの?
今、なぎさんは私に、私の唇に何を、しているの?
眼を見開いたら、なぎさんの閉じられた眼と、お顔がすんごく―――今まで見たことないくらい、すんごく近くにあって。
手は何時の間にか優しく握られてて、恋人つなぎみたいに絡めるように握られてて。
空いた手は私の背中から腰に回されてて、優しくそっと身体をなぎさんのほうに抱き寄せられてて。
シャワーの音と、なぎさんの吐息の音だけが、ずっと耳の奥で熱く響いてて。
えと、あの、これは。
その、あの。
あれ。
あれ。
あ、口、離れて。
えと、あの、その。
ウソ。あれ?
全部、全部、塗り変えられた。
さっきまで泣いてたこと、叫んでたこと、怖がってたこと、苦しかったこと。
我ながら、どれだけチョロいんだって思わなくもないけれど。
たった口づけ一つで、全部、全部塗り変えられた。感情も、思考も、私が抱えていた苦しさや痛みも全部。
その口づけ一つで、なぎさん一色に染め上げられてる。
おかしい、な。私、つい一瞬前まで、ここから消えなきゃとか、もう嫌われたとか、どうしてこんなふうに生まれちゃったのとか、すんごい深刻に考えてたはずなのに。
たった一瞬、それだけで、何もかも塗り変えられてる。
なぎさんに―――好きな人に、キスされた、たったそれだけで。
口が離れて、そこで、ようやくあなたの顔を直視する。
どれだけ怒っているんだろう。どれだけ失望されているんだろう。
どれだけ嫌われているんだろう。ていうか絶対、嫌われた。
そんなことを、ずっとずっと、あの酷い妄想を思い浮かべるたびに、ずっとずっと怖がっていたっていうのに。
なぎさんは、笑ってた。
まるで今までのことは、なんでもないって言うみたいに。あんなに私が汚くてどうしようもないところを見せたのに。
私が、想い悩んで消えちゃいたいって想ってたことを、まるで何でもないみたいに笑ってた。
あなたにどれだけ嫌われるか、考えるだけで怖かったのに、そんなこと嘘みたいに笑ってた。
「ねえ、あこ、解きたい誤解が三つあるから」
「まず、私はそんなことであこを嫌いになったりしないこと。あこがえっちなこと考えてたくらいで、なぎさんはあこに対する態度を変えません。そんなことより、一緒に居てくれて嬉しいことの方が一杯あるから」
「次に、
「最後の誤解は――――、なぎさんはダメでろくでもない大人なので。あこが想っているより、えっちですよということね。今日までも、『あこは子どもなんだから、たくさん傷ついてきた子なんだから、絶対に手は出しちゃダメだぞー』ってブレーキ踏んでただけなんだよ。だからえっちなことは、本当はあこに負けないくらいたくさん考えているのです。寝る前はいっつも独りでしてるから、そこに関してもお相子だね」
「ま、子どもにこうやって無理矢理キスを迫ってる時点で、悪い大人なのはよくわかったでしょ?」
「さあ、どうする、あこちゃん? ……はは、こら叩かない叩かない」
「ファーストキス? そりゃあ残念、ふふ、これからずっとキスするたびに私のこと想い出しちゃうようになるかもね? ……ん、ムード? あはは、そんなもの擦れた大人に求めるものじゃないのだよ、あこちゃん。初キスで舌を挿れられなかっただけありがたく思いなさい」
「ね、ところであこ、私の認識が間違ってなければなんだけど―――」
「―――
あなたは優しく笑ってた。
ちょっといたずらっぽい笑みを浮かべたまま。
きっと顔が真っ赤になっている私を見つめて、どこか愉し気に笑ってた。
いや、さらっと、とんでもないこと言ってない!? なぎさん?!
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