第9話


 「身体から毒が出てるんです」




 「人を狂わせる毒が出てて、それが性欲を刺激して、みんなを獣みたいに変えちゃうから」




 「お父さんとお母さんに襲われたのも、道すがら人に襲われたのも、隣の人が出て行ったのも、全部全部私の毒のせいなんです」




 「だから一つのところに止まってちゃいけなくて、だからホームレスみたいな生活してて、私の毒を買ってくれる奴がいたから。そいつに売ってお金を稼いでて」




 「ほんとはここにもいちゃいけないのに、なぎさんが毒が効かなかったから、ずっといちゃってて」




 「でもなぎさんも、そのうち毒が効くようになっちゃうから」




 「出ていかなくちゃいけなくて」




 「ごめんなさい」




 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」





 「ごめんなさい、全部私のせいなんです」


















 あこは、比較的大人びた見た目をしている。


 背はそこそこあるし、身体は起伏がしっかりしてる。顔は童顔に近いけど、そこに幼さはあまり見られない。ともすれば、可愛らしく魅力的にみられるように、意図的に造られたんじゃないかって感じるほど。


 化粧も髪のセットもまともにしてないホームレススタイルでこれなのだ。本気になったら、どれほどの美人になることやら。


 でも、だからこそ、見落としていたことがあった気がする。


 この子はまだ、子どもなんだ。


 どれだけ見た目が大人びていようと、どれだけ魅力的な姿をしていようと、どれだけ特異な背景を持っていようと。


 結局のところ、子どもなのだ。身体は大きくなれても、心の成長はまだ身体に追いつけてるわけじゃない。


 幼稚園の子どもかってくらい、泣きじゃくるあこの頭を撫でながら、そんなことに今更気付いた。


 私の足の間であこはくるまるみたいに、私の薄い胸に頭を押し付けて、途方もない告白を続けている。


 突拍子もない話だとは、正直思う。でも、なんでか疑おうって気持ちは一ミリも湧いてこなかった。だってその喉の奥から絞り出すような嗚咽と、心を軋ませるような小さな叫びが嘘にはとても見えなかったから。もしこれで嘘なら、そのまま役者になって稼げばいいから心配はいらないだろう。


 ……それにしても。


 身体から出る毒。


 人を性欲に狂わすもの。


 体液や身体を隠す行為。


 繰り返される数多の性被害の原因。


 この年頃の子どもが住む場所もない不自然。


 そのわりになぜか持っている出どころ不明の金銭。


 口座を作れないってことは、保護者との関係が断絶しているということ。


 そしてその彼女にまつわる不幸の元凶たる毒が私に効かないこと。


 色々と、点と点が線で繋がっていくような、納得と理解が頭の中を巡っていた。


 あー、なるほどあれねと、ここ一週間の光景を想い起こす。そして、その背景でこの少女が何を想っていたのかも。


 それを慮ると少し胸の痛みが、私にも移ってきそうなほどには、あまりにも痛ましい話だった。


 「よしよし、辛かったな」


 口から出る言葉が陳腐過ぎて嫌になるけど、それくらいしか伝えられるものがない。


 人と関われないことは嫌だったろう。人に襲われるのも辛かったろう。それが心に傷をつけて怖くなってしまっただろう。その全てを言えないことは寂しかったろう。知られてしまえばどう利用されるかなんて、考えるだけで苦しかったろうし、悲しかったろう。


 私の安い想像でこれなのだから、この子の小さな身に降り注いだそれは、きっと思い浮かべることすらできないほどの傷を遺していったんだろう。


 身体を犯されることは何よりも怖いけれど、その果てに心が侵されることも、伝えきれないほどに辛いのだ。


 時に、自分という生き物が大事にしていた想いも、自分そのものへの価値感すらも書き換わってしまうほどに。


 「辛いし、苦しいし、悲しかったな。全部わかる……なんては言ってはあげれないけど、大丈夫、ちゃんと伝わってるよ」


 いくら言葉を掛けても、少女は泣くことを止めはしない。止められないんだ、言葉と感情はいくらでも溢れてきて、止め処ない。それくらい、この子が抱えていたものが途方もないってことの証でもあるんだろう。


 そうやって、あこが泣き止むまで時間を経て、結局、泣きつかれて彼女が寝たのは日付も変わって随分と経った頃だった。









 ※



 「はい、はい。すんごい熱が出たんで休みます。はい、大丈夫です。一日休んだら大丈夫です。え、声が元気そう? 気のせいです、いえ、まじで死にそうなんで、はいはい、すいません、はい。じゃあ、失礼します」


 スマホを耳から離して、通話を終了してから軽く息と煙を吐いた。それから、そもそも電源をオフにする。うむ、これで今日はもう電話は鳴ってこない。昨日、仕事を任せてたバイトくんの困り顔が目に浮かぶようだけど。すまんな、私にだってこういう日はあるんだよ。


 あれから日が明けて朝になった。仕事に行ってもよかったけど、今日はなんとなくあこから目を離したくなかった。というより、今目を離したら、この子、どっかに消えていなくなりそうだし。


 なので、久しぶりに休みを取った。ここ最近、連勤だったから、いったいいつ振りの休日だろう。それすらもう、わかんねえな。


 軽く欠伸をしながら、こたつにくるまる形でまだ眠っているあこに目を向ける。


 涙の跡が頬に残っていて、ちょっと痛ましくはあるけれど、穏やかな呼吸で眠ってる。


 さてさて、たまには私も朝ごはん作ってあこが起きるのでも待ってようかな。





 ……なんて思考をするまでは良かったけれど。


 「いや、ごめん……焦げてね、すんごい焦げてね」


 「はい………………」


 あこの真似をして、余っていた材料でホットケーキなんて作ってみたのが運の尽きだった。甘くふわふわになるはずだった彼らは見事にのっぺりした黒い物体へと変化している。とりあえず、製作者責任で一口かじってみる。うん、ばりっていう音がした。ふわふわとは程遠い、あと苦い。改めて想うけど、あこは料理ちゃんとしてくれてたんだな……。


 寝起きで若干、喉ががらがらなあこは、訝し気にホットケーキを覗き込んだ後、フォークで焦げ部分をべりべりと剥がし始めた。恐らくそれが賢い。私もまねて、黒い部分をべりべりと剥がして食べる。量が三割くらい目減りしている気もするが、まあ致し方ないか。


 そうやって、しばらく、お互い無言でホットケーキの中身だけをもそもそと食べていた。


 なにを伝えたもんか、どう励ましたものかなとしばらく考えて、考えたうえで、さっぱりと気の利いた言葉出てこなかった。それくらい、この子の痛みは私には計り知れない気がしてた。


 フォークの先をしばらく動かして、迷ってから、結局私はありきたりで陳腐な言葉を投げるくらいしかできそうにない。



 「



 どうせありきたりな言葉なんだ。せめて、眼を見てしっかり伝えようと、そう想った。


 あこは少し驚いたように、眼を見開いてこっちを見ていた。



 「行く場所ないんなら、まだ、ここにいてていいから」



 あと、あと、私に一体、何が伝えられるんだろう。


 この子と私は、結局のところ、赤の他人の延長線。親子でもないし、恋人でもないし、教師と教え子でも、何か重大な契約を結んだ相手でもないし。友人と呼ぶのが近い気もするけれど、ちょっと違う気も正直する。


 名前をつけることもできない、この関係の中で、私に一体何が伝えられるんだろう。



 「なんだっけ、毒…………いや、毒って言い方嫌だなあ。その、あこの身体のことも、とりあえずは気にしなくていいから。ダメなこと、していいことは、一緒に暮らしてたら、きっとだんだんわかってくるし」



 わかりやすい希望論、根拠のない楽観論。でもそれくらいしか、紡げる言葉が私にはない。必死に伝えてはみるけれど、あこの不安はあんまり変わっていないのか、少し驚いたような、でもどことなく悲しそうな表情で私を見ている。



  「それに……あの……えと」



 いつも、どうでもいいことの時はよく口が回る癖に、なんで、こんな大事な時にちゃんと回らないんだこの舌は。



 「だから、その、あのね」



 伝えたいことなんて、始めから一つしかなかったろ。




 「




 つまり、そう、結局のところ。


 私の想いはただ、それだけ。それっぽっち。


 恥ずかしくなって笑ったら、あこはどことなく困ったような、でもどこか泣きそうな表情で笑ってた。


 「あはは……、なんですか、それ」


 「あら、だめ?」


 そう聞くと、あこはちょっとだけむっとした後、少し俯いてぽつぽつと言葉を零す。


 「だめ……、だめじゃないけど、私、いっぱい迷惑……かけますよ? きっと、今ままでも、本当にずっと、迷惑ばっかで」


 ぷくく、なんじゃそら。本気で言ってんのかな、この子は。


 「別にいーじゃん、人なんて迷惑かけあってなんぼだよ」


 私なんて、今日も絶賛、人に迷惑かけてるしな。まあ、あこに言ったら気に病みそうだから言わんけど。


 「なぎさんは……怒ってないんですか? 私、何回も、不安で試しちゃって、秘密も一杯あったし……」


 「それもいいよ、私が逆の立場だったら同じようなことしてた気もするし。そうそう気軽に言えるもんでもなかったんでしょ?」


 「あ、えと…………はい」


 というか、多分、言ってくれただけ、口にしてくれただけありがたいことなのだ。別れるまでずっと蓋をしてる可能性もあったわけだし。


 「それにあこは困ってたんでしょ?」


 私の言葉に、君は少しだけ俯いて、しばらくしてから、小さくこくんと頭が揺れた。


 「じゃあ、まあ、助けるよ。私の多少の苦労で、あこの幸せが買えるんならコスパいいしさ」


 コンビニ飯一つとっても、私の十倍は喜ぶ子なのだ。お買い得ってもんじゃない。


 「そんな…………、でも私なんにも返せてないのに……」


 あこはそう言って、ちょっと涙目になりながら、私を見る。でもまあ、そこに関しても、なんというか。気にする必要ないのになあ。


 でもまあ、意外とこういうことから口にしていかないといけないんだよね。


 「ごはん作ってくれたじゃん、ほら、私が作ると、こんな黒焦げくんしかできないしさ。それに、ずっと独り暮らしだとね、帰って誰かがいるってだけで、その……楽しくなったりするんだよ」


 最後の方にちょっと照れが入ったのが、我ながらわかってしまって恥ずかしい。あこがいてくれると嬉しい、って言おうとしただけだけど、なんか急に照れが来てしまった。


 ちょっといたたまれなくなって目を逸らしたら、こたつの中から這い出てきたねこくんがこっちを見ていた。私と目が合うと、にゃあと鳴いて、大きな欠伸をかましてる。


 「ほら、ねこくんもいてくれるしさ」


 そういうと、あこはようやくくすっと笑ってくれていた。うんうん、やっぱ美人は泣き顔もいいけれど、笑顔が一番似合うよねえ。私の計器がぶっ壊れた幸福センサーでも、少しは心が弾む気がするもんだ。


 「心配しなくていいよ、きっとなんとかなるからさー」


 そう言って笑ったら、君は困ったような、でもどこか嬉しそうな、そんななんとも言えない顔をしながらぽつぽつと涙を零してた。


 仕方ないなあって笑いながら、私は袖を少し伸ばしてその涙を拭いてあげる。


 「ありがとう、ございます……」


 そうやって、君から言葉を引き出せたのなら、私はそれで満足だ。


 いやあ、自己満足のわがまま放題。先のこともわからない、いいかげん女だけど、まあなんとかなるでしょう。片方の手であこの頭を撫でながら、もう片方の袖であこの涙を拭いていた。


 けらけらと笑ったら、君はあははとちょっと鼻声で笑ってた。


 とどのところつまりまあ、これは。


 寂しがりの女が、たまたま傷ついた女の子を拾って、自分勝手に抱え込むそういうお話。


 あこの事情とか、あこの気持ちとか、慮ってあげたいけれど、他人なので口にしたことしかわからない。でもまあ、そのうちちょっとずつ、お互い伝えていけるでしょ。


 根拠はないし、保証もない、ついでにいうなら法律の後押しもなさそうだけれどさ。


 まあ、それでいいやとそう思う。


 なんせ、こっちとしては、十年ぶりくらいに生きてるなあって実感が持てているのだから。


 きっとこれから、色んな事が起こるけど、まあなんとかなるからと。


 泣き笑う君の隣で謳ってた。


 きっとそう、大丈夫だって。根拠もないまま謳ってた。


 だって明日のことは、誰にもわかりはしないから。


 ま……解決するべき問題は。正直いくつかあるけどね。


 それもまあ、あこの気持ちが落ち着いてからになるのかな。


 そう想う、私の隣で、ねこくんもにゃあと鳴いていた。

























 あこの涙を拭いて自分の袖口がすっかり湿ったのを見て、ふと、気になった。


 「ところでさあ、あこ」


 「はい」


 「その……あこの身体のことって、体液ならなんでもいいの?」


 「はい、えと、厳密に言うと体液によって効果が違うらしいんですけれど……」


 「なぎ……さん?」


 「ふーん……」


 「なんで、あの、え? なんで、御自分の袖を見てるんですか? あの、汚れてるんで、あの私の涙だけじゃなくて、鼻水とかもはいってるんで! あの、なんでそんなに見てるんですか?!」


 「れろ……。うん、甘い……気がする」


 「なにやってるんですかぁぁっっ??!!!!!!!」


 その日は、平日の朝っぱらから、アパートにあこの大声が響き渡っていた。

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