第8話


 心の傷のいいところ、人には見えないから、笑っていればバレないところ。


 心の傷のいやなところ、人に見えないから、笑っていれば、誰一人も気付いてなんてくれないところ。


 例えば、顔におっきな傷があれば、だれだって何があったのって心配するし。どうしてそうなったかを聞いたら、誰だって大変だったねっていってくれるんじゃないかなあ。


 でも、心の傷は眼に見えないから、口にしなければ、誰一人だって気づかない。


 その傷がどれだけ大きくて、どれだけ苦しくて、どれだけ今も血を流し続けてるかなんて、誰一人だってわからない。


 出来ることは、精々、私の拙い口であれやこれやと説明するだけ。


 これがこんなに苦しいです。あれがこんなに怖いです。それがこんなにしんどいです。


 言って、伝えて、ああ大変ねで、はいおしまい。


 私が眼のまえで肩から血を吹き出していたら、きっとその人は慌てて救急車でも呼んでくれるだろうけど。見えない傷は誰一人だって、その本当の痛みをわかってはくれないから。


 もしかしたら、実は私の傷なんて大したことなくて、独りでぎゃあぎゃあ騒いでるだけなのかもしれないし。


 これくらいの傷、本当はみんな持っていて、ちょっと訓練したら、誰だってどうにもでもなる。そんなものなのかも、しれない。


 もしもそうなら、そっちの方が気は楽だけど。じゃあ、その練習方法を教えてよって気もするけどさ。


 まあ、そうやって、自分の心のことを学ぶことからも、向き合うことからも、ずっと逃げてきたわけだけど。


 だって、今の私が追い込まれた状況は、どう思っても、どう考えても、どう願っても、原因は一つに決まってるから。


 それを誰も知らないから、多少可哀そうっていってくれる人もいたけれど。


 私がことの全ての主犯だとバレた日には。きっとみんな手のひらを返すんじゃないかなあ。


 そう、つまり、このお話は、結局のところでいうとさ。





 他の誰でもない、私自身が悪い話なんだ。




 だって全ての原因は、私がこういう形で生まれてきてしまったこと、そのもので。




 だから私は、それが卑怯だとわかっていながら、秘密にすることを選んだんだ。





 だってそうすれば、この傷のことなんて、誰一人だって知りはしないから。




 ――――それでいいと想ってたんだ。


















 心臓が強く跳ねた。




「――――ところで、なんで泣いてたの? ねえ、あこ。――――なんで?」




 その一跳ねで、身体の全部に血が巡り尽くしたんじゃないかってくらい、強く、強く跳ねた。




 だめだ、笑え。




 『どうしたんですか、なんでもないですよ?』




 笑え。隠せ。




 「んー、でも泣いた跡、あるよ?」




 隠せ。見せるな。




 『あはは、ちょっと寒くて目が滲んだだけですよ』




 声、震えるな。知られるな。




 知られたら軽蔑される、否定される、利用される、襲われる。




 だから、隠せ。伝えるな。




 「……んー、大事な秘密?」




 肯定も―――ダメだ。暗に言うことすらいけない。隠せ。覆え。否定しろ。目を見るな。悟られるな。知られることはあっちゃいけない。



 だって、でないと、嫌われる。



 でないと、否定される。



 でないと、利用される。



 でないと、襲われる。



 でないと、でないと、でないと、でないと。



 ―――大丈夫だ。笑え。心なんて誰にも見えない。誰も知らない。口を閉ざしてしまえさえすれば、気付かれない。だから、笑え。



 『いいえ、秘密なんてありませんよ。もしかしたら、ちょっと寝不足だったかもしれませんね』



 『大丈夫、泣いてなんていませんよ。私はほら、大丈夫ですから』




 『笑顔だって作れますよ、ほら、いーって、ね? 大丈夫でしょ?』




 『だから、だから―――――』







 心の傷は口にしなければ、誰にだって見えません。



 例えば、そう―――。



 本当は、男の人が嫌いです。襲われたから。



 本当は、女の人が嫌いです。襲われたから。



 肩を触られるのは嫌いです。引っ張られると反射で叫び出しそうになります。



 人前で肌を見せるのも嫌いです。誰かがいる場所で着替えることもできません。



 首を触られるのは嫌いです。いつだったかに絞められたから。



 暗い路地が嫌いです。



 満員電車が嫌いです。



 人混みが嫌いです。肩に人が触れる位置にいるだけで嫌になります。



 漫画喫茶が嫌いです。安いホテルも嫌いです。でも高いホテルはもっと嫌いです。



 お酒の匂いが嫌いです。脱脂綿の匂いも、消毒液の匂いも嫌いです。



 年老いた人が嫌いです。学生みたいな人が嫌いです。中年の人が嫌いです。



 暗い部屋も、狭いロッカーも、大通りの人並みも。



 全部、全部、全部、嫌いこわいです。



 だって、全部、襲われた場所だから。



 だって、全部、襲われた人だから。



 慣れてる、なんて、何度自分に言い聞かせたって、心の傷はその都度できて、さっぱり消えてくれません。



 何度、忘れようと思っても、頭が勝手に少し似た場所があるだけで、その時の記憶を何度も何度も流します。そうして、段々、嫌いなこわいものが増えてきました。



 最近、インターホンが鳴る音が嫌いにこわくなりました。



 全部、全部、覚えています。



 全部、全部、忘れられたことなんてありません。



 ずっと、ずーっと残ってます。私の心は、きっと胸から取り出したら見れたものじゃないくらい、ボロボロで、ぐちゃぐちゃで、壊れて崩れてしまってると想います。



 でも、でも。



 それも、笑って隠せば気づかれません。



 嘯いて、鼻で笑って、呆れたような口調をすれば、誰も気づくはずがありません。



 これからもきっと、私はそうやって、傷を隠して生きていくのです。



 だって、そこには秘密があって、それを知られたらきっと、きっと、みんなが私を責めるから。



 だから、私はこのまま笑って嘘をつくのです。



 明日もいつまで?



 明後日もどうして?



 ずっと、ずっともうダメなのに



 そうすればいいのですしんどいよ、つらいよ



 だって、心の傷は。



 口にしなければ、誰にだって見えないのきづいてもらえないんだから。



 だから。



 「んー、そうなん? なんかしんどそーに見えるけど?」



 聞かないで。



 「私はちょっと心配だよ、あんまり元気もなさそうだし」



 知らないで。



 「たった一週間ちょっとの関係だけどさ、今日のあこが一番しんどそうだし」



 気づかないで。



 「なんか言いたいこととか、聞いて欲しいこととかない?」



 優しく、しないで。



 「あこ…………? どした?」



 壊れちゃうから。



 「あこ? おーい、あこ?」



 ずっと、ずっと我慢してきたから。



 「んー、どした? やっぱ話聞くか? しんどいことあったんでしょ?」



 ずっと、ずっと、ずっと、誰にだって言えなかったから。



 「ほれ、おいで。こっち」



 手を取らないで。



 「よしよし」



 優しく抱きしめないで。



 「泣いちゃえ、泣いちゃえ。しんどかったな」



 だめ、だめ、だめだって、わかってるのに。私から出るものは、涙だって毒なのに。



 ああ。


 ああ。



 ああ。









 「なぎさん」



 「なあに、あこ」



 「なぎさんたすけて



 「ん、よしよし」



 「なぎさんたすけて、なぎさんたすけて、なぎさんたすけてっ……」



 「うん……、大丈夫、大丈夫」



















 心の傷は、眼に見えないから口にしないと、誰一人にだってわからない。


 だから傷を負った、あこ自身も口にしないとわからない。


 ひび割れた器から、水が漏れ出るまで、ずっとそう。


 そうやって、傷口からたくさんのものが漏れ出たこんな夜に、この子は初めて自分が抱えた傷の重さを知るんだろう。


 何があったのかは、何も知らない。


 どんな日々を過ごしてきたのか、何も知らない。


 何を想ったのかも、何を怖がったのかも、何を助けてほしかったのかも。


 私はきっと、何も知らない。あこ自身も、わかってるかどうかは結構あやしい。


 でも、どれくらいしんどいか、どれくらい辛いか、どれくらい悲しいかはなんとなくわかる気がした。


 胸にあたるあこのあたまを撫でながら、部屋着の胸元がじんわりと温かい何かで濡れるのだけを感じながら。


 呼応するようにねこくんも隣で泣いている。


 寒空の下、暗い夜。


 一匹のねこと、一人の子どもが泣いていた。


 でも、きっと。


 そんな夜があってもいい。


 あっても、いいんだ。


 小さな頭を撫でながら、空いた手で電子タバコをつけた。


 ああ、今日は、また長い夜になりそうだ。

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