第7話

 心的外傷トラウマってやつの嫌なところは、理性の判断なんて全部ガン無視して起こるところだ。


 現実的に、今、その脅威があるわけじゃないってことは、頭ではちゃんとわかってる。過去は過去、今は今だ。


 そんなこと、頭ではわかりきってるのに、脳が、身体が、勝手に無意識に防衛反応を叩き起こす。アラートをガンガン鳴らして、かつての感情を想い起こして、必死に自分をその場から逃がそうとする。


 例えば、小さい頃にいじめを受けた少女がいたとする。もちろん、その時はいじめられたかもしれないが、それが十年・二十年経った後でもいじめられてるわけじゃない。


そして、現実的に彼女の周囲には優しい人ばかりがいたとする。それでも彼女は、きっと人と交わるたびにいつかのいじめの光景を繰り返し想いだすんだろう。もうそれは過去のことだとわかっていながら。


 そこに理屈はなく、ただ暴力的なほど、どうしようもない感情に塗れた記憶だけが、そこにある。


 『逃げろ』『立ち去れ』『でないと、でないと、またあの頃のように苦しむぞ』って、所かまわず、人と交わるだけで、心の奥の小さな子どもが叫び続ける。


 そして、たとえ一時忘れても、ふとした瞬間に、想い出す。それは言うなれば、地下の水脈のようなもので、例え目に見えなくともその人の心の源流に、明確にずっと残ってる。そしていつしか、地盤が緩くなったときに、地の底から染みだすように、その心の奥から顔を覗かせる。


 そうして気づけば、いつかあの時流した涙より、それを想い出して流す涙の方が多くなっていて。


 そうやって時折、押し寄せる、津波のような感情にも随分と慣れてきた。今の私はそんな感じだ。


 ……いや、そういえば、最近は慣れてきたのを加味しても、割と想いだすことも減ってたっけ。なんでだろ。


 ま、理由なんて分かりきってるか、そんなもん。忙しない同居人が出来たからだ、おかげで独りで悩みに耽る暇もない。


 そんな発見に少しだけクスッと笑ってしまう。


 そんなこんなで、仕事帰りの道の途中、電子タバコでつくった煙を輪っかにしようと遊んでた。だけど相変わらず上手くいかない。喫煙所でよく会うおっちゃんたちがよくやってるけど、あれどうやってるんだろう。やっぱ紙巻じゃないとうまくできないのかな。


 そうしてアパートの階段を登りきって鍵を手に掛けたところで、ふと気が付く。あれ、電気ついてねえ。


 あこがいるから、最近は帰ってきてもずっと電気つけっぱなしで、暖房効きっぱなしだったから。まあ、部屋を暖める手間がなくて助かってるんだけど。


 ドアノブを捻っても鍵は締まってる。鍵を開けて、がちゃりと開けた部屋の中は、外から見た通り真っ暗だった。


 「あこー? 出かけた?」


 暗闇に声を掛けるけど、あこの声は帰ってこない。かわりにとつとつと、廊下を歩く小さな足音が聞こえてきて、程なくしてねこくんが暗闇から顔を出してきた。


 「ただいま、ねこくん。あこは外かな?」


 がちゃんと後ろ手にドアを閉めて、電気をつけながら、ねこくんにそう言ってみた。もちろん、意味なんて通じないけど、ねこくんはにゃあと返事だけはしてくれた。


 「そうかそうか」

 

 ま、意味なんてわかんないけど。とりあえず頷いておく。靴を脱いで部屋の中に足を進めたら、ねこくんは追従するみたいに私の隣にぴったりとついていた。暖房が付いていないから、部屋は寒い。こりゃあ、あこはどっか行ってるのかな。


 リビングに顔を出しても案の定、こたつの所にあこの姿はどこにもなかった。


 ここ一週間見慣れた光景がそこになく、十年近く見慣れていたはずの光景がそこにある。なのに、今の方が違和感を感じるのはなんでなんだか。


 エアコンとこたつをつけて、荷物を置いて、軽くお湯を沸かしてから、こたつに入る。長年やってたいつものルーティン、今はねこくんが傍にいるけど。


 「あこってば、どこいったのかなー」


 ねこくんに聞いてみる。答えはにゃあ、そりゃそうだ。


 「今日はおでんの材料買ってきたんだぜー? 包丁ないからさ、おでんセットみたいなの。出汁も一緒でねー、もーあと煮込むだけのやつ」


 にゃあにゃあ、にゃにゃあ。


 「でも、じゃがいもだけは入れたくてさー、いもはなんとおでんセットに入ってないの。ありえないよね、いもあってこそのおでんじゃんって。だからいもだけ別で買ってきちゃった。あ、ごはん炊かないと、ちなみに私はおでんでごはんを食べれる人よ」


 なあ、なあ、にゃあ、にゃあ。


 「今日はねー、コーラ買うん我慢したんだぜー。あこが寝れないって言ってたし。おねーさんもいい加減、カフェインのない生活を目指すべきかなーとか。いや、今日、缶コーヒー五本くらい飲んでたし、今更だな」


 にゃあ。


 「なあ、ねこくん、それにしてもお前のご主人はどこに行っちゃったんだい?」


 なー。


 「なぎさんはさー……なんか不安になっちゃうぜ」


 仕事の疲れで少し曖昧になった視界の中で、私の隣で元気よく返事をくれるねこくんに、思わずそうこぼしてた。


 『みんな、いつか私の所から、去っていく』


 「大丈夫」


 『あの子もそう、お前に愛想をつかしたんだ』


 「大丈夫」


 『お前は誰かの隣にいちゃあ、いけないんだ』


 「大丈夫さ」


 こたつで身体はあったまってきたっていうのに、どうしてか胸の奥はずっと寒い。


 あーあ、早く帰ってこないかな、あこ。どこほっつき歩いてるんだろう。









 子どもが。



 子どもが泣く声が聞こえてた。



 小さな声、でも高くてよく響く子どもの声。



 男の子か、女の子さ、それさえ判断もつかないほどに幼い声。



 夢現の中、そんな声を聞いていた。












 ※


 「なぎさん、なぎさん」



 …………。



 「なぎさーん、おーきてくださーい、こたつで寝てたら風邪ひきますよ?」




 ………………。




 「起きないなー……ってこれなんだろ、おでんセット……? ああ、これが今日のご飯のつもりだったのかな? ……ん? じゃがいもはどう皮をむくおつもりで?」


 ………ん。


 「あ、なぎさん、起きました?」


 「………うん。ごめん寝てたや」


 思いっきり伸びをしてあこにそういうと、優しげな微笑みがこっちを向いていた。あこは私が起きたのを確認すると、軽く笑ってキツマチンに行ってしまう。……なんか変じゃなかったかな。


 「……ふふ、ねこくんと一緒におねんねでしたよ。今からご飯作りますんでちょっと待ってくださいねー。いもは………チンしていれるか」


 「んー、ありがと、あこ」


 返事をしながらボケっとした頭で考える、とうのあこはこっちを見ないで料理の準備をしてるけど。なんか変だなあって感覚はどうにも消えない。


 「いえいえー、いい家政婦でしょ? さー、腕によりをかけますよー」


 んー……、声の調子が変なのかな。少しだけ、声が震えた後のような、そんなふうに聞こえなくもない。


 「あはは、たのむわー、スーパー家政婦。ところでさー」


 そうやって声をかけた時に、あこの顔が少しだけこっちを向いた、視線をむけるほんの一瞬。見えたのは、たった一瞬。でもそれで十分で。そうして、ようやくその違和感の正体に気がついた。いや、寝ぼけてたとは言え、初見で気づけよ、私のばか。


 「なんですかー?」


 声が少し震えたように聞こえたのは、喉が腫れているからじゃないか。


 「……………」


 あまりこちらを向かないようにしてるのは、その跡を私に悟らせないようするためじゃん。


 「なぎさーん?」



 ああ、そっか、この子。



 わけは知らない、何も聞いてないから。だって、私はこの子と10日くらい前に出会ったばかだし。自分が何者か、どんな背景を持っているのか、明らかに、この子は明言を避けていた。



 そこに引かれているのは、境界線だ。



 ここから先は踏み込まない、踏み込まないからこそ、私達はこの不安定な関係を維持できてる。



 だから、ここは多分、分水嶺。あの子が、私の元を今すぐ去るか、留まるかの。そんなの、考えるまでもなく、選ぶ答えは決まってるでしょ。



 あこには離れて欲しくない、冬の終わりまでとは言ってるけど。まあ、できるだけだらだらと長居しといて欲しい。そのためには、ここは踏み込まないのが正解だ。



 そうして、なあなあの関係を―――お互い傷には触れない痛みのない関係を、今まで通り維持していければ、それでいい。だって私たちはお互い、ただ偶然出会っただけの、通りすがりとさして変わらない関係だから。



 そうでないと、この関係は、いとも容易く壊れてしまうから。



 そうすれば、私はこの狭い部屋の中で、また独りになってしまうから。



 だから、泣いてることには触れない。ここで止まる、踏み込まない、気付かないふりをする。



 それでいい。



 ポケットから電子タバコを取り出して口をつけた。



 それでいい。



 短く吸って、暖かい何かが胸の中に満ちるのを待ってから、ゆっくりと息を吐きだした。



 ああ。



 「なぎさーん、これ―――」






 頭の奥の、本当に奥の方で。




 少女が独り、泣いていた。



















 「――――ところで、なんで泣いてたの?



 ねえ、あこ。――――なんで?」

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