第6話

 『そういえば、あこって甘いに匂いがするよねえ』


 そう言われた次の日、久しぶりに外の街を歩いていた。他人とすれ違うたび、できるだけ足を早めて進んでいく。


 『あんた、最近香水でもつけだした?』


 コートも着込んだ。マスクもした。マフラーもしてるし。手袋もしてる。そうやって、私からにじみ出る何かが、他人に触れないよう蓋をする。


 『なんか最近、―――の近くにいるとさ、チョコみたいな匂いしない?』


 今日はねこくんもついてきていないから、本当に独りだ。そういえば、ここ最近、なぎさんとねこくんと過ごしてたから、独りなったのって随分と久しぶりじゃんね。


 しばらく街を歩いて、指定されたホテルを見つけた。無駄に高いビルで、入り口も煌びやかで、余計にため息が出てくる場所だ。


 早足にホテルのフロントを通過する。呼び止められても面倒だし、さっさとエレベーターに乗り込んだ。


 十階で、廊下を抜けて、部屋番号を確認してからチャイムを二回押す。まるでそこで待機してみたいにドアはすぐに、でもゆっくりと開きやがった。


 「どうぞ、あこさん」


 売人の男はいつも通り柔和な笑顔とそれに似合わない、真っ黒なごついマスクをつけてそう言った。


 とりあえず、通りぬけざまに股間を蹴っておいた。ま、かるいプラスチックの音がしただけだったけど。


 ※


 「いやあ、お久しぶりですね。といっても、二週間程度ですか?」


 「そうだっけ、覚えてない」


 なんて返事をしてみるけれど、頭の中にはきっちり最後どの日に会ったかの記憶がある。なぎさんと出会う直前の日だから、丁度十三日前だ。久しぶりって感じは全然しない。


 「お久しぶりですし、の方をしてもかまいませんか?」


 「私の話が先だバカ」


 遠慮もないし、気遣いもない、どこまでも自分都合で、私のことはただの『商品』の生産元としか見ていない。とってもわかりやすい外道野郎、本人も否定してこないのがなおたちが悪い。


 しっかり着込んだスーツも、ワックスで整えられた髪型も、柔和な笑みも何もかも、人に取り入るための道具でしかない。そうした方が他人に取り入りやすいから、記号としてそうしてる。そしてその人に取り入るのも、結局のところ金が目当てでしかない。ただ効率がいいからそうしてる。本当にろくでもない、そういう奴だ。


 「それは残念。……さて、今の同居人の方の話ですね?」


 そう言った売人のやつは、ポケットからいくつか出した脱脂綿と綿棒を、至極、残念そうにしまった。まあ、そういう振りだ。わかってってやってやがる。


 「そう、状況は、一応、話したと想うけど―――」


 「はい、聞き及んでいます。不健康がいきすぎて、あこさんの香りの効果が表れない方……でしたね。いやはや、なるほど聞き及んだときは、そういう例外もあるのかと感心しました。状態としてはあこさんの匂いが及ぼす、性的興奮を受信する神経の受容体が、カフェインやニコチンで既に埋め尽くされているが故、効きづらいといった形なのでしょうね。興味深い限りですが、私のクライアントで多少不健康な方も依然、にお楽しみただいています。そこを加味すると、よほどその方の健康状態が危ういか、また別の要因が効果を阻害しているか。いやはや、興味深い限りですね。何にせよ彼女はあなたの体液を直接摂取しても、性的興奮を及ぼさない、あこさんにとっては数少ない『安全な人』、それが故あこさんはその方と一時的に同居する道を選んだ―――」


 「…………よく、一息でそんなぺらぺらと言葉がでてくるね」


 一の言葉を投げたら、十の返事が返ってくる、しかも早口でまくし立てるみたいに。嫌悪と呆れを通り越して、軽いため息しか出てこない。


 「―――というのが、昨日までの状況だったと」


 「そうだけど」


 売人の奴の目尻が薄く歪む、マスク越しでもにたにたと笑っているのが目に浮かぶ。


 「結論から申しましょう、その方にもあこさんの効能は。概ねそう言った見解で間違いないかと」


 「……………………」


 「あこさんが危惧されている通り、『甘い匂い』というのはあこさんの効能が効果を表す際の前兆です。私のお客様もみな一様に商品からは、甘い匂いがする―――とおっしゃられています。もちろん、厳密に糖分等が甘い匂いを引き起こしているわけではなく、脳がそう誤認するような働きかけが行われている、というのが正しいのですが。それに関しては今、研究しておりまして原因成分の特定がしたいのですが、これがなかなか難航して―――」


 「わかった、もういい」


 軽く息を吐いて、吐き捨てるように視線を逸らした。本当は唾くらい吐いてやりたかったけど、ホテルの人に迷惑が掛かるだけなのでやめておいた。


 「―――承知しました」


 売人は少し残念そうに、そう言った。ふりだろうけど。


 「いつか……いつかはちゃん効いちゃってことだよね」


 「――――はい」


 なんでこういう時だけ、簡潔に答えやがるのか。


 「―――そ、まあ、知ってたけどさ」


 「――――――」


 売人は黙って、何も言わずに私を見ていた。


 頭が少し痛くなる、息が荒れてさっさとこの場から立ち去ってしまいたくなる。


 溜息が荒れるのを感じながら、売人の奴を睨みつけた。


 「私の用件は終わり、採取でもなんでも、さっさとしてよ」


 「―――はい、では失礼しますね」


 売人の奴はそう言って、脱脂綿と試験管を懐から取り出した。


 ああ、ほんとにろくでもない。


 口を大きく開けられて、その中にピンセットでつかんだ脱脂綿を入れられながら、そう想った。


眼を閉じて、粘膜をいじられる不快感に耐えながら、暖かいこたつの中を、ただ想い描いていた。



 

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