第5話

 いつもは出勤の大体三十分くらい前まで潰れて寝てるのが、いつもの私のルーティンだけど、今日はいやに早く目が覚めた。


 「あべし」


 新たな同居人、一人と一匹のうちの、一匹に見事にねこパンチを食らって眼が覚めた。私のでこに判子でも押すみたいに、綺麗に肉球が乗っかっている。


 大きな欠伸をしながら視界を回すと、台所であこが何かをやっている。うーん、昨日の今日で料理魂にでも目覚めたのかな。欠伸をしながら時計を確認してみる。あら、出勤まで随分と余裕がある。


 「優秀な目覚ましじゃ」


 隣で揃って欠伸をかいていたねこくんを持ち上げて、そう言ってみる。縞々の茶色模様の彼はふーにゃと欠伸をしながら、されるがままだ。おかげで彼の雄の象徴たるブツも立派に見えている。ちょっと触ってみたみもあるけど、さすがに怒られそうなんでやめとこう。


 そうやって彼を抱えながら、ぼーっとしていたら、ふと昨日の夜のことがフラッシュバックするみたいに流れてきた。


 深夜の遅い時間にあこと話したこと、その些細な会話と、少しだけのたばこの時間。



 ………………あれで、よかったのかなあ。



 正直、だいぶデリケートな性の話題だった。それで恥ずかしがるような年でもないけど普通は言うのもはばかられることも、かなり洗いざらい言ってしまった気がしてる。


 『なぎさんは、えっちってしてことあります?』


 何気ない話題だ、お年頃の子どもの疑問と想えば、普通で健全。だからこそ、誤魔化す言葉は山のようにあったけれど、あの瞬間、あこはそれを望んでない気がしてた。なんでかはわかんないけど。


 きっと、『そういうのは大人になってから』なんて、上っ面の言葉が聞きたいわけじゃないんだろう。


 そんで、『好きな人と結ばれるから、あれは素敵だった』なんて、よくある夢に塗れた答えが欲しいわけでもなさそうで。


 ただ、私という人間がそのブラックボックスを、今までの人生で、どう見てどう感じてきたか。それを真っすぐに問われたような気がしたんだ。


 だから、ただ、ありのまま答えてしまった。


 ……とは言っても、さすがにぶっちゃけすぎたかな。夢壊れるって言われたし、結局、あんまりいいもんじゃないっていう結論で終っちゃった気もするしなあ。


 そう考えだすと、性被害をよく受けていた子にかける言葉としては、負のイメージを助長しているだけのような……。


 なんて思考をしていると止まらなくなってるので、全部手放してねこくんも手放して寝っ転がる。私の腕から離れたねこくんは、軽やかに着地すると「うごぶ」私の鳩尾を見事に踏み抜きながら、私の顔をじっと見降ろしていた。


 「なんだおらー、やんのかおらー」


マウントを取られたので、喧嘩腰になって相手をしてみる。人差し指を「シュッシュッ」っていいながら、動かして首元を軽くつんつんしてみたら。なんかおもちゃだと思ったのか、ぺしぺしと私の指を叩き始めた。しばらくそうして、なんか楽しくなったので、指を忙しなく動かして、ねこくんも気づけば両の手で私の指を迎撃しようと構えてくる。ふふふ、突きの速さ比べか……。


 「オラオラオラオラオラ」


 「あ、なぎさん起きてるー、おはようございまーす……って、何やってんですか?」


 なんて遊んでいたら、キッチンからあこがひょこっと顔を出して首を傾げた。手には何やらお皿が載せられていて、随分といい匂いがしてる。やっぱり料理してたのか。


 「おはー。ねこくんと、オラオラ無駄無駄やってたの」


 説明しても、あこは不思議そうに首を傾げるだけだった。ジェネレーションギャップにおばさんは今日も大の字になって寝転がるだけ。まあ、三部のアニメももう結構前だもんね……。


 なんて不貞腐れていたら、あこは首を傾げたまま、私の隣に座り込んで、こたつに持っていたお皿を乗せた。いい匂いの正体は、どうやら甘く香るホットケーキだったみたいだ。うへへ。


 「よくできた嫁じゃあ、ありがたやありがたや」


 「いや、いつの時代の人ですか。はちみつとか、ここ置いときますね」


 なんて話をしながら、あこは少し呆れた表情で私の隣に大きなはちみつの瓶を置く。


 「あれ……こんなん、うちにあったっけ? っていうか、ホットケーキの材料なんてあったっけ」


 「え、もちろん、ありませんでしたよ?」


 疑問に首を傾げたら、同じようにきょとんとした表情で、あこは軽く首を傾げた。ふむふむ、つまりどういうことだってばよ。


 「私が寝てる間に、買いに行ったん?」


 「いいえ、昨日、うーばーとかで配達頼んだだけですよ。卵とホットケーキの粉とか、なんか食べたくなったんですよね」


 と、あこはこともなげに言ってのける。うむむ、なんか不思議な行動力あるよなあこの子。


 「そっか、お金はどうしたの?」


 「自分で払いましたよ。こう見えて結構、お金持ってますから」


 そう言って、あこは自慢げに胸を張った。たまに窺われるこの謎の財力は一体何なんだろう。未成年の女の子がホームレスしてんのも大概変だけど、その状態でちゃんとお金を確保してるってのも、どういう背景なのかねえ。意外と、私が知らないだけで、ほんとはすごい子だったりするんだろうか。


 「ほへー、財布すら見たことないけどねえ」


 「ふふふ、全部ぺいぺいなので」


 いや、やっぱり変な子かもしんねえな。


 「いや、さすがに現金なり口座なりあったほうがよくない?」


 「未成年は口座作るのが大変なんですよ……」


 私の疑問に帰ってきた答えは、思ってたより現実的な理由だった。あこの顔も若干の自嘲がが見える。大変だねえと思いながら、出してくれたフォークを掴んでホットケーキを切らずにそのまま口に入れる。包丁がない我が家に食べる用のナイフなんて高尚なものはないのである。


 「甘い、うまい」


 「ふふふ、なによりです。……ただ、なぎさん、表情筋が一ミリも動いてないですよ」


 「まじでか、いや、ほんとうまいよ。久しぶりに食べたし」


 寝起きなのもあって、いつも以上に死んでいるであろう顔をうぎぎと手で引っ張って無理矢理伸ばしてみる。伸びたか、おら、ちゃんと仕事しろ表情筋。


 そんなことをしていたら、あこは隣でくすくすと笑っていた。


 「なぎさん、普段、表情動かないから、すんごい変な顔してますよ、今」


 「まひで?」


 床に落ちていたスマホを取ろうとしたけれど、よく考えたら手を離した時点で、私はいつも通りの無表情に戻るわけだ。意味ねえなこりゃ。


 そんなんで、固まった表情筋を手放して、ふうと息を吐いてから、ホットケーキの咀嚼に戻る。うん、甘い。柔らかい。


 なんてことをしていると、甘い匂いを嗅ぎつけてきたのか、ねこくんが私の膝元に戻ってきた。


 「おやおや、良い鼻をしててなによりだけど、君にはあげれんのだよ」


 膝の上からよっこいしょとその身体を退けてやると、くるっと私の周りを一周回って、膝の上に戻ってきた。退く気はないと、なるほどねえ……。


 「後で、チュールあげるか……」


 というわけで、膝の上の住人の退去は諦めて、残りのホットケーキを口の中に詰め込んだ。うん、甘い。私が料理作って感想がこれだったら、ぶん殴っちゃいそうだけど。しかし、舌の感覚が死んでいるせいか、それ以上の感覚も出てこない。食事を刺激とカロリー以外で認識すること自体が、珍しいもんなあ……。


 そんな哀愁を紛らわせるために、空いた手で膝上のねこくんを撫でてみる。普通、ねこはそんなの嫌がりそうなもんだけど、ねこくんはごろごろ言いながら嫌がるふうもなく撫でられている。こっちも大概、変な子だよなあ。


 「なーぎさん」


 なんて考えていたら、隣の変な子から声をかけられた。


 「なんじゃい、あこさんや」


 「ホットケーキを作ったのは私であって、ねこくんではないのですが」


 そう言ったあこは横目でこちらを見つめていた。いや、横目が細められて薄く笑っているようにさえ見える。


 そして、あこが作ったなんてことはもちろんわかってる。わかってるのに言ったってことは、そういう意味じゃないってことだ。


 「うん、ありがとう、おいしいよう。あこ」


 と、褒めてみるけど、若干藪にらみ気味のあこはさっぱり表情を変えようとしない。整った目尻が細められてこっちを見てきて、思わずぞくっとしてしまう。なんというか、顔立ち整ってる分、顔の怖さもひとしおみたいだ。


 「わーたーしが――。つくったんですけど。なぜねこくんだけ撫でられているんですかぁー?」


 藪にらみ美人はこっちを横目でねめつけるように見てくる。なんだなんだとねこくんと一緒に、戦々恐々としてみるけれど、特に機嫌は直りそうにもない。


 「…………つまり?」


 「………………」


 返事はない。


 「…………撫でろと?」


 無言で頭が差し出された。


 撫でた。


 「もっと」


 一杯撫でた。


 「もっと」


 すんごい撫でた。よーしゃよしゃと髪がぐちゃぐちゃになるくらいに撫でた。


 「まだ」


 そこまでしてから、緊張の糸が切れて思わず笑ってしまった。


 「ふふ、くふふ」


 対面のあこもいつのまにやら、怖い顔は吹き飛んで、肩を揺らしてくすくすと笑っている。


 「なにこれえ」


 「えー、だって、せっかく作ったし褒めてもらいたいじゃないですかあ」


 けらけらと笑いながら、両手であこの頭をわしゃわしゃとかき乱す。髪型が乱れるのはあれだけど、まあ、今はいいでしょう。


 「美人は凄むと怖いわー」


 「誰だって凄んだら怖いでしょ」


 「いやあ、なんか迫力がねぇ、違う気がする」


 「かーわーりません、あとそんな凄んでもいませーん」


 なんてやり取りをしながら、けらけらと笑ういあう。仕事が始まるまでの僅かな時間。普段は眠りこけている、そんな朝。


 あこを撫でてたら、ねこくんが吾輩もなでろと急かしてくる。へいへいと手を代えたら、今度はあこが私も私もと急かしてくる。なんじゃこりゃって、けらけら二人で笑ってた。


 ああ、それにしも、こういう時間も悪くないねえ。


 なんて想ってた頃だった。


















 「そういえば、



 私がそう言うと、あこの表情がぴたりと止まった気がした。気のせいかもしれないけど。



 「あ―――あはは、ホットケーキの匂いですよ、それ、なぎさん」


 「そっか、まあ、そりゃそうか」


 「じゃ、片づけちゃいますね、あはは」


 そう言って、空いた皿を片づけるあこの手が、少しぎこちないように見えたのは、気のせい……だったりするのかな。


 目を伏せながら、皿を片づけるあこの表情が、赤いような、でもなにか深刻なことを抱えているような。そんな複雑な表情をしていたのが、少しだけ気にかかった。


 そんな朝のことだった。

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