第4話

 夜は少しだけ、眼が冴える。


 路上で過ごしてた時は、夜の方が危なかったから、あまり眠らずにふらふらしていたせいかな。


 そんなだから、同じく夜更かし仲間のねこくんと一緒に、真っ暗な部屋の中、空に浮かぶ月を眺めていた。窓の外は、凍えて震えそうなほど寒いけど、暖房が効いた部屋の中にいる私は、何の寒さも感じずに外の景色を見てるだけ。


 にゃーお。


 と、そう窓の向こうに向かって泣いてみた。


 足元のねこくんも、にゃーおと返事をするように鳴いていた。ねこはどうして鳴くんだろう。その鳴き声で誰かを呼び止める、ためとかなのかな。


 真っ暗闇の中、毛布にくるまりながら、そんなことを考えていた、そんな時だった。


 「あ、夜更かししてる、わるわるコンビがいるじゃん」


 後ろから、なぎさんの少し低い声がして、私は首を傾けて振り返る。パジャマ姿のなぎさんは、おおきなあくびをしながら、手にはマグカップを持っていた。そんななぎさんに、ねこくんはにゃーおと夜の挨拶をする。


 「コーラを飲んじゃったんで、うまく眠れなかったんです。そういう、なぎさんは?」


 私の問いに、なぎさんはぽりぽりと頭を掻きながら、軽く笑っていた。


 「私はまあ、もはやカフェインとか効かんから。夜中にコーヒーもコーラーも関係ないよ。単純にトイレが近くなっただけ」


 なるほどーと返事をしながら、ねこくんをちょいちょいと呼び戻す。ねこくんはしばらくなぎさんと、私を見比べてから、くわっと顔を歪めると、なぎさんの方へとことこと歩き出してしまった。あらら、つれないなあ。


 それに苦笑してから、どこかぼーっとした表情で、机のたばこを探してるなぎさんに向けてもう一度声をかける。月明かりが部屋を照らしてるから、電気をつけなくても、暗がりの部屋の様子はよく見えた。


 「折角なので、おしゃべりしません?」


 私がそういうと、なぎさんは少し首を傾げてから、みつけた電子タバコにしゅぼっと火をつけると、私の隣まで歩いてきた。足元にいたねこくんは、たばこの音にびくっと反応すると、廊下の奥までとことこと逃げてしまった。


 そんな様子になぎさんは軽く笑いながら、そのまま机のそばに腰かけると、軽く笑って応えてくれた。


 「いいよ、なに話そうか?」


 なぎさんは明日も仕事があるから、夜更かしはそれなりにわがままなはずだけど。なのに、特に気にした風もなく受け入れてくれた。……これが大人の余裕なのかなあ。


 なんて思いながら、何を聞こうかなって考えた。そうして、ふと浮かんだ最初の言葉は、あんまりいい話題じゃあなかった。でも、夜更けの静かな空気の中だったからか、そのままするっと気付けば、口から滑り出ていた。



 「なぎさんは、えっちってしたことあります?」



 一瞬だけ、時間が止まったような気がした。夜の静けさが辺りに満ちて、なにもない、そんな一瞬があった気がした。


 「あるよ」


 だけど、なぎさんは、こともなげに、まるで何でもないことのように、そう言った。言っちゃった。


 「……ふーん、どうでした? 私したことないんですよねえ」


 「んー、20代前半くらいまでは、結構溺れたかなあ。それをすることで自分に価値があるって錯覚もあって。ま、なにより気持ちよかったしね」


 当たり前にする会話が、少しだけ、寂しいのは何でだろう。それにしても、そっか、溺れてたのかぁ。


 「錯覚って……今は違うんですか?」


 「まあ、人と人のやることだからねえ。ある意味、思ってるよりすんごい現実的な作業なんだよ」


 「ふーむ、現実的とは?」


 「うーん、お互いがお互いの顔色伺って、いいえっちにしようってせっせと、空気読みながらする……って感じかなあ。リアルな肉体だからね、結構ぐろかったりもするし」


 「………へえ」


 そっか、やっぱり、そういうもんなんだ。


 なぎさんは、落ち着いた静かな調子で、言葉をつづけた。


 「それに身体は繋がっても、心まで繋がるわけじゃないからねえ。昨日の夜、必死で求め合った相手と、次の日の朝にくだらないことで喧嘩とかしたりすんの。結局、他人だもんなあって気がついてからは、あんまり昔ほどしたくはなくなっちゃったかな」


 なぎさんの声が少しだけ、寂しさと疲れで揺れているような、そんな気がした。


 「……夢壊れますねえ」


 おもわず、そうぼやいてた。だって、もし、そこまで身体を許せるような誰かがあらわれたら、どれほど素敵なことなんだろ。きっと触れられても嫌じゃなくて、優しくて、そんな素敵な人と抱きしめ合えたら、どれだけ幸せなことなんだろう、なんて。


 まあ、所詮、恋人の一人もできたことのない、がきんちょの妄想ってことか。そうじゃない、暴力的なやつなら、結構覚えがあるのになあ。結局それが現実なのか。


 「へえ、夢とか抱いてたんだ」


 「いえ、正直、微塵も。痴漢とかされまくったんで、むしろ若干そういうのは嫌いです」


 「おおう……美人は辛いなあ」


 軽く息を吐いたら、なぎさんは困ったように笑ってた。別に困らせたかったわけじゃないから、私は軽く首を振って、嫌な記憶を飛ばしておく。


 「美人かどうかは知りませんが、そういうのに狙われやすい見た目らしいですよ。なぎさんも気を付けないと」


 「私みたいな、がりがりでたばこくせー女は、当社比、狙われにくいもんだよ」


 そう言って笑いながら、なぎさんは天井に向かって、煙を吐いた。私はそんな言葉にくすっと笑う。


 「いや笑い事じゃないんで、ちゃんとご飯食べてください。お菓子だけとかもうだめですから」


 「そしたら、ないすばでーになって痴漢されちゃうぜ」


 「いや、そっちも笑い事じゃないんですけど……」


 「はは、ごめん、こういう冗談は地雷か」


 「んー、嫌な思い出はいっぱいありますから」


 「例えばって、聞いていいやつ?」


 ぷくっと頬を膨らませて、不機嫌そうな表情を試してみる。うん、ポーズだけだけど。


 「通りすがりの人に、路地に何度か連れ込まれそうになったり」


 「……ごめん、想像の35倍はヘビーだったわ」


 なぎさんがちょっと申し訳なさそうな顔をしたから、ちょっと面白くなって、笑みを浮かべた。あえていたずらっぽくいってみる。


 「え、割と普通では? というか、なぎさん、現場に遭遇してたじゃないですか」


 「……まあ、そうだけどさ。そんな、『え、うちの国では当たり前だけど?』みたいなのりで言われても、困っちゃうぜ。私、連れ込みなんてくらったことないからよ」


 「んー、なにが原因でしょね。胸のデカさ?」


 どやあ、と胸を張ってみる。私の無駄についた脂肪がたゆんと揺れる。こいつのせいで路上生活の時に身体の線を隠すのに苦労したなあ。


 「うーん。何も反論できねえ」


 なぎさんは軽く笑って、困ったなあと煙を見ていた。そんな姿に私は、思わず楽しくなってにやけが深くなってしまう。


 「顔だちの整い具合?」


 「自覚系美人だったか、こんちくしょう」


 「ま、真面目な話すると、多分、トータルで見たらマイナスのほうがでかいですよ、私の場合。普通に、トラウマとかありますし」


 少しだけ視線を逸らして、窓の外を見た。でも、窓の暗がりに反射して、なぎさんの顔は、結局よく見えた。


 「……まあ、そーよなあ。大変だったねえ、あこも」


 「まあ笑い話にできるだけましでしょ。でも、なぎさんもお顔はなかなか可愛いと思いますが? 私は結構趣味ですよ?」


 そうやって、少しだけからかってみた。ただ当のなぎさんは、どことなくほげーとした顔で、たばこを吸ってばかり。うーん、本気ととられてねーなこりゃ。


 「こんなヤニくせー女、心配せんでも、誰も手は出さんのさ……」


 「えー、ほんとですかぁ?」


 「……いや、出したやつはいたっちゃいたか。大体たばこで、物理的に焼いてたな」


 そう言って、なぎさんんは口から電子タバコを見ると、しみじみとした表情で、架空の痴漢にタバコを押し付けていた。うーん、この人は。


 「……想像の75倍はとんでもないことしてんじゃないですか」


 「褒めるな、褒めるな」


 「きゃー、なぎさん、かっけー、惚れちゃーう」


 「うへへ」


 小さく、声援を飛ばしたら、なぎさんはちょっとわざとらしく照れていた。そんな姿にも、思わずくすっと笑ってしまう。


 「ねえ、なぎさん」


 呼べば、返事が返ってくるのが嬉しかった。


 「なに、あこ」


 聞けば、当たり前に答えてくれるのが嬉しかった。


 「たばこ、一口だけください」


 私の言葉に、あなたは少し驚いた表情をしたけれど、やがていたずらっぽくにいっと口角を釣り上げた。それから、ちょいちょいと手招きして私を呼ぶ。私はその手に導かれるまま、毛布にくるまったまま、そそくさとなぎさんの傍に寄った。


 「わぁるい子、でもいいよ。私も悪い大人だし」


 そう言って、あなたがさっきまで口をつけていた、電子タバコをそっと私の前に差し出した。


 私は指し示されるまま、電子タバコの付け口にパクっと口をつけた。


 いつも、なぎさんから漂っている、ミントめいた中に、どことなく煙っぽい匂いがそこからふわっと漂ってきた。


 むせるかなって思ったけど、暖かい空気は、淀みなく身体に回る。


 そうやって数秒だけ、じっとなぎさんと同じ電子タバコに口をつけていた。


 「はい、おしまい」


 「あー、はやーい、もうちょっと吸いたかったのに」


 そうして、ふと気付けば、すぽっと私の口からたばこが抜かれていた。それから、なぎさんはにししと笑いながら、それを自分の口に戻していた。


 「こっから先は、成人してから吸いなー。で、どうだった?」


 「うーん、よくわかりませんでした。あ、でもなぎさんっぽい香りはしてたかな」


 「私の匂い、タバコの香りかあ……」


 それから、あなたは自分の口に戻したたばこを、特に気にした風もなくすっていた。当たり前のことだけど、そこは私が口をつけて、私の唾液が付いた場所。


 私の毒が塗られた、それをあなたは気にもせず、口にふくんでた。


 私はそれを見届けてから、笑みを深くして、なぎさんの隣からそっと立ち上がる。


 「じゃ、そろそろ眠くなってきたんで、私寝ますね」


 「うん、私もこれ吸ったら寝るや。おやすみ、あこ」


 「はい、おやすみなさい、なぎさん」


 相変わらず、あなたは何も知らないけれど。


 そんな時間が少しだけ心地いい。


 そんな夜のことだった。

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