第10話
ふと目を閉じて想いだすのは、私を大事にしてくれた誰かとの些細な記憶。
窓から差し込む陽だまりの傍で、誰かに膝枕をしてもらって、暖かさと安心の中で寝息を立てるような。
きっと、誰にでもあって、そして私にはもう届かないそんな記憶。
涙で少し傷む目元を開けて、見えた先になぎさんが笑ってる姿を見て。
なんでかそんなことを想い出していた。
※
「あこ……さん? これから一体何が始まるんでしょう?」
「―――お説教です」
「ガチな奴?」
「ガチで、マジで、真剣で、本気な奴です」
「はい…………」
というわけで、ダメだって言ってんのに、私の涙を興味本位で舐めおったなぎさんにお説教タイムが始まった。
とりあえず、こんこんとせつせつと私の体液が本来いかにやばい物なのかを説明する。
「いいですか、今! たまたま! なぎさんは効かなかっただけで、これは本来滅茶苦茶にやばい代物なんです。そこら辺、歩いている人に飲ませたら、その人を簡単に性犯罪者にできるって代物です。犯罪者ですよ、犯罪者! 百歩譲って襲われるのが私だったら黙ってればいいけれど、場合によって私以外が被害者になることもあるんです! そしたらどうなりますか? お互いの人生滅茶苦茶です! なぎさんの人生も、その人の人生も滅茶苦茶になるんですよ!」
「はい、いや、ほんと以後気を付けます……」
なぎさんはしょんぼりと頭を垂れているけれど、このくらいでは全然足りない、本当にやばいってことを解ってもらわないといけない。あと、ついでに私の怒りも収まってない。
「しかも、涙は本当にやばいんです。汗とか唾液の十倍くらい効果があるんです! 何年も性的なことをしてこなかった人が、人を襲い始めたとか。人によっては理性が飛んで記憶がなくなるくらい乱れたりするんです! もう絶対しないでくださいね!」
「はい……しません、もうしません」
ふーっと一息に言葉を吐いて、じっとなぎさんの眼を見つめる。どことなく気まずそうに逸らされてはいるけれど、一応こっちを窺ってはいる。わかってるかなあ……、大丈夫かなあ……。
「売人が売るときは絶対薄めて使うし、私が泣いてるだけで近くの人があてられるようなやつなんです。麻薬の原液舐めてるようなものですよ。なにもなくてよかったですけど…………」
そこまで言ってから考える…………本当に何もなかったのかな?
売人の奴が言うには、なぎさんは元の体調が悪すぎて私の毒が効いてないように見えてるだけだ。つまり実際のところは効いてる、あくまでそう見えてないだけで。私の体液を甘い、って言ってるのがその証拠。
だとするなら、こうやって私の毒を摂取し続けたらどうなるんだろう。……単純に考えたらどこかで、爆発する。花粉症みたいに、ずっと吸い続けていたら限界が来たところでアレルギー反応が起きるみたいに。
それが私といる時なら、まだいいけど。外で起こってしまったら?
可能性は低いかもだけど、起こらないって保証もない。毒が時間差で効き始めるのは両親やこの部屋の隣人で実証済みだし……。
考えれば考えるほど、まずい気がしてきた。くそう、私が誰かと暮らすってことがどれだけ危ういか、改めて舐めていたような気がする。冬が明けるまでとか、効かないように見えるとか、そういうところで甘えすぎた。
どうやったら対策を取れるか、って考えて浮かぶ顔は一つしかないのだけれど。
頼りたくないっていうのは隠すまでもない本音だし。対価に何を求められるかも正直わかったもんじゃない。
でも、これは結局、私が蒔いた種だ。それにかかっているのはなぎさんの生活だ。
四の五の言ってるばあいじゃない……か。
「なぎさん、今日の午後って空いてますよね?」
「……まあ、休みにしたからそりゃあ空いてるけど」
「わかりました、ちょっと待っててくれますか?」
そう言って、不思議そうに首を傾げるなぎさんを置いて、私は廊下に出ると持っていたスマホであまり自分からかけたくない番号にコールした。
というか、昨日あったばっかりなのに、もう会わなきゃいけないかとおもうと吐き気がしてくる。ひと月に一回でも、正直会いたい顔じゃない。
コール二回で、計ったようにそいつは電話に出てきた。
『はい、
爽やかで、一見清潔感冴え漂う透き通った声が、心底腹立つ。思わず返事をする声も低くなる。
「………………私」
『はい、あこさんですね。どうしました? こんなに頻繫に連絡いただくのは珍しいですね』
「……悪い? 要件が出来たの」
『ほう、いかがされました? あこさんのお頼みであれば喜んで尽力させていただきますよ』
まったく、聞いてるだけで歯が浮きそうになる台詞ばかりだ。どうにか舌打ちしそうになるのを我慢しながら、用件だけできるだけ淡々と告げてみる。正直、こいつに弱みを晒すのははっきり言って、悪手な気がするけれど。他に頼れる相手もいないし、ことなぎさんのことだから背に腹も変えられない。
『―――ほう……以前お聞きしていた方ですね。なるほど……それであこさんの涙を飲んでしまったと。今の様子はどうですか?』
「わかんない、とりあえず、落ち着いてるように見えるけど。……時間差で発作が出るかもしんないし……」
『承知しました。差し支えなければ、一度、直接見てみたいですね、そちらにお伺いしても?』
撫でるようにねっとりとした言葉に、思わず背筋が軽く震えた。
「いやだ。くるな、私達がそっち行く。場所は前のホテルからどうせ変わってないんでしょ」
『それは残念。……そして、はい場所は以前のホテルです。今日来られますか?』
「今すぐ、いく」
『承知しました、では後ほど』
返事もせずに私はスマホの通話を切った。はあ、足を運ぶのもあの無駄に豪勢なホテルに行くのも気が進まないけど、あいつにこの部屋に入ってこられるのはもっと嫌だ。そしてあいつのことだ、一度、通したら味を占めて私が知らないうちに訪ねてくるくらいは平気でする。
ああ、想いだすだけでイライラする。自分の頬が歪んでいるのが、嫌でもわかってしまくらいには。
軽くため息をついて、ほっぺたを触ってごねごねとこね直す。多分、今、なぎさんに見せていい顔してないから。
そうやって表情を戻してから、私は部屋に戻ってねこくんと遊んでいるなぎさんに声をかけた。
「なぎさん、お持たせしました。今から外に出ますんで準備してもらえますか?」
「うん、どこ行くの?」
「世界一腹が立つ男の所です」
そういうと、なぎさんはなんのこっちゃと首を傾げた。なんでかねこくんもそれを見て首を傾げてた。
うーん、だめだこれじゃあ、あんまり伝わらないな。
少し長く息を吸って、私は改めて、あの男のことを口にした。
「私の毒を金持ちに売りさばいてる売人の所です」
なぎさんとは、できれば会わせたくはなかったけど。
そうも言ってられなくなったから、会いに行かなければいけなくなった。
私の毒を売りさばく売人に。
そして、行き倒れていた私に金銭を与えた、受け入れがたいけど、命の恩人に。
でもそこら辺の功罪を加味しても、糞であることに変わりはない、そんな奴に。
そして恐らく、私の毒について誰よりも詳しいその男に。
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