エピローグ Ⅲ
恋のことはよく知ってた。
※
恋のことはよく知りませんでした。
※
愛が何かもわかってた。
※
愛が何かもわかりませんでした。
※
欲のことは溢れるばかりに思い知っていて。
※
欲のことは嫌になるくらいに身に沁みついていて。
※
だから誰かを好きになることなんて、とっくの昔に知り尽くしたつもりだった。
※
だから誰かに好きになってもらうなんて、そんな資格ありっこないって想ってました。
※
だから、もうそんな言葉に――好きとか、愛してるとか――に、夢なんて見れなくなったって想ってた。
※
だから、好きとか、愛してるとか―――そんな言葉、私にとっては意味のない、マッチ売りの少女がこと切れる間際に見る夢みたいなものでした。
※
だけど。
※
どうにも。
※
そういうことばかりじゃあ、ないみたい。
※
絶対そう、っていうわけでもないみたいです。
※
ぷつん、と小さく耳に孔が空く音と、少しばかりの痛みが私の脳を揺らして。
※
パチン、と震えながら押し込んだピアッサーが、あなたの身体に確かに疵をつけて。
※
夢が。
※
恋が。
※
愛が
※
毒が。
※
覚める。
※
音がしました。
※
愛心
※
手から、ピアッサーが床の上にカランと乾いた音を立てて落ちました。
そのまま少しだけ転がって、やがて何も聞こえなくなりました。
静かな、静かな時間だけが、暗くて月明かりと街灯だけが照らしている部屋の中、過ぎていました。
どう、なったのかな。
私の口から漏れ出る息は少し細く、震えていて。
あなたに抱き着く腕もうまく力が入らなくて、冷たい何かが身体にじわりと滲んでいく。
私から告げれる言葉は何もない。
今は、ただあなたの答えを待つだけだから。
腕の中にあなたの首と、身体の柔らかさとその温度を感じながら。
その体温が、少し―――ほんの少しだけ冷たくなっていくような錯覚に苦しくなる。
多分、今、なぎさんのなかで、『発作』の夢がゆっくりと覚めている。
きっと、この三か月近い間、かかりっぱなしだった、長い、長い夢が。
ふぅ……ともう一度、長く、細く、ただ自分を落ち着けるためだけに息を吐く。
胸がぎゅっと痛くなって、想わずなぎさんのことをあらん限り抱きしめたくなったけど、必死で力を籠めないように抗い続ける。
今はダメだ。これ以上、泣くのもダメだ。
せっかく夢を覚ましたのに、意味がなくなっちゃう。
ぎゅっと唇を結びながら、あなたの言葉をじっと待つ。
ほんとは、今すぐにでも声を掛けたい。
どうですか?
どんな気分ですか?
嫌じゃないですか? 苦しくないですか?
こうやって抱きしめらるの、気持ち悪くないですか?
まだ私のことを好きなままでいてくれますか?
聞きたい。聞きたい。
でも、それを聞いてしまったら優しいこの人は、本心とは別の言葉を言ってしまうかもしれない。
それにきっと今、自分の変化に一番不安なのはなぎさんだから。
ただその気持ちがゆっくりとなぎさんの身体に染み込んで、自分で口を開いてくれるのをただ待たなきゃいけない。
だから、涙も零さず、抱きしめる腕に力も込めず、じっと、じっと、その身体にくっついていた。
周りからは、何も、音がしない。
そのせいかあなたの心臓の音と、時々身体が微かに動く音だけが耳に残ってく。
もしかしたら、こうやって抱き着けるのも最後なのかもしれない。
そう考えたら、また泣きそうで。
涙が零れないように必死に、唇を噛んで誤魔化した。
早く、早く。答えが欲しい、でも聞くのも怖い。
心臓が張り裂けそうなくらいに痛くなる、息が段々荒れてきて、抑えきれなくなりそうなのをなぎさんに悟られないように必死に堪える。
そうやって。
十分か。
一時間か。
いや、ほんとは凄く短かったのかもしれない。
もしかしたら、たった数秒にも満たない。
そんな曖昧な時間の後に。
「あこ」
なぎさんはそう口を開いた。
「…………はい」
静かで、穏やかな声だった。
私が好きだった声、私の名前を読んでくれる声。
「あこ」
優しいあなたの声。私を受容れてくれたあなたの声。
「……はい」
泣きそうになるのを必死に堪えながら、返事をする。
「あこ」
「……はい」
だけど。
「あこ」
「はい」
あなたは。
「あこ、あこ」
「はい、あこですよ」
「あこ、あこだねえ」
「…………そういってます」
歌うみたいに。
「あ~~~っこ」
「な、なんなんですか、もう!?」
楽しむみたいに。
「んー? 言わないとわかんない?」
「わかんない! です!!」
想わず顔を上げてしまう。
きっと泣きそうになっている今の顔を、あなたの前に晒してしまう。
「ふふふー」
そんな私にあなたは、
暗闇の中。
街灯と月明かりだけを背に受けて。
泣きそうな私の前で。
まるで何を確かめるみたいに、私の名前を読んで。
まるで、そう、心配することなんて何もないみたいに。
自分の気持ちを確かめて、遊ぶみたいに。
いつもの表情で、変わらずに、私のことを見てくれていた。
「好きだよ、あこ」
何も変わらない、あなたのままで。
恋の毒から。
愛の夢から。
欲の香りから。
眼を覚ましたはずなのに。
それでも私のことを見て。
変わらずに笑ってくれた。
それだけが。
ただそれだけが嬉しくて。
ホントは流しちゃダメなのに。
こんなに零しちゃダメなのに。
眼から零れ出ていく雫を止められなくて。
もう止めたくなくて。
声も。
涙も。
想いも全部。
もう抑えることなんてできなくて。
溢れるように泣いていた。
暗闇の中、小さな部屋で座るあなたに抱き着きながら。
ただあなたが笑いかけてくれたそれだけで。
あなたの胸に抱きよさせられて泣いていた。
※
恋のことは、よく知りません。
愛のことも、よくわかりません。
欲は、分かった気になっていたけれど、実はしらないことがまだまだあって。
でもあなたが笑いかけてくれたら、それだけで不安の痛みが消えていくから。
好きという気持ちが、少しだけわかってきた気がします。
あなたに好きと言ってもらえた、ただそれだけで。
幸せという言葉をようやく、ちょっとずつだけれど、感じていける気がしました。
たった一言、ただそれだけで。
あなたが好きで、あなたに好きになってもらえる自分なら。
少しだけ、許してあげてもいい、そんな気がしていました。
そうやって考えていると、ふと。
『君は悪くない』
そんないまいちピンとこなかった、貰い物の言葉を。
なぜか今は、あまり苦しまずに想いだすことが出来ました。
あなたの胸の中で、あなたの声を聴きながら。
少しだけ、そんな話をしてみようと想うことができた。
そんなある日の夜でした。
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