エピローグ Ⅳ



 音が鳴る。



 私の夢が覚める音。



 造られた『発作』が終わる音。



 眼を開ける。



 目の前にあるのは少女の顔、どこか泣きそうになっているのを必死に抑えて私の言葉を待っている顔。



 この子のことを、私はまだ好きなままだろうか。



 そう考えていると身体の奥からじわりとじわりと痛みが溢れ出してくる。



 ああ、もしかすると、まずいやつかな、これ。



 本当の意味でこの子のことを好きになれるようにって言ったけど、口にした私はまだ夢の中にいたころの私だった。



 今の、私に、それを守る理由と意思はあるんだろうか。



 ――――――わからない。



 ただ残酷なことに、発作が及ぼしていた影響は確かにあったみたいで。



 さっきまでより、この子に対する感情のようなものが変化しているのは感じられた。



 ゆっくりと、じんわりと、でも少しずつ熱が空に逃げていくみたいに。



 恋する乙女のように全てが良く見えていた部分が、少しずつフラットに平坦なものになっていく。



 ていうか、私はそもそも冷めた奴だったんだから。誰と恋をしても、うまくなんて行かなかった奴なんだから、当たり前っちゃ当たり前な気もするけど。



 それにしても、身体が痛い。この子の傍にいると、身体の痛みがマシだったけど、発作の影響もあったのかな。そばに居るだけでセロトニンとか出て、鎮痛作用でもあったのか。なんにしても、生理の時に呑んだ痛み止めが切れてきたみたいな、あまりよくない感覚が湧いてくる。



 ふー……と長く息を吐く、それだけで身体の節々からじんわりと滲むように痛みが広がっていく。



 …………今、私は明確に、夢から覚めてる。



 そして、この子に対する恋や愛からも。



 ……失望されるだろうか、私の好意が、私の言葉が、発作によりもたらされたものだと知ったら、この子は私のことを他の人たちと同じように見てしまうだろうか。



 なんて伝えたらいいんだろう。なんて答えたらいいんだろう。



 いっそ、また発作を起こして、全部なかったふりをするか。



 ………………嫌だなあ、それはしたくない。



 だって、この子に対して、不誠実になるのは嫌だし。



 何より、そんな嘘は自分に、もうあまりつきたくない。



 …………………………。



 ……………………。



 ………………あれ。



 なんで、私は自分に嘘をつきたくないなんて、想ったんだろ。



 別にいいじゃん、今までずっとそうしてきたじゃん。



 酒飲んで、タバコ吸って、性欲に溺れて。



 自分の身体のサインから、自分の奥底の想いからずっと目を背け続けて。



 そんなこと、ずっと繰り返してきたはずじゃん。



 なんで、今更――――。





 眼を見た。



 座っている私の身体に抱き着きながら、どこかじっと何かを堪えるように、なのに泣き出しそうになっている少女の。



 うるんで、滲んで、それなのに、私の言葉をじっと待っている少女の。



 その眼と、私の眼があっていた。



 この子に抱いていた、恋のような想いはきっと発作で造られたもので。



 この子と過ごしているときに感じていた、愛のような想いもその香りに誘われたもので。



 この子と過ごしているときに、ずっと私の背を押していた欲のような想いも、その身体に望まれたもので。



 それは確かに、今、私の心から少し陰ってしまったように感じるけれど。



 こうやって、抱き合って、触れられて、眼を見つめ合って。



 でも、それを嫌だとは想わなかった。



 普通、本当に心の距離が遠い人に、こんな触れ方をされていたら、きっと嫌なはずなのに。



 私は何の違和感もなく、この子を、傍に受け入れていた。



 全部なくなったように感じたのに、どこか残り火みたいにちらついているこの想いは。



 恋でもなくて。



 愛でもなくて。



 欲でもなくて。



 じゃあ、残った、この想いは。



 一体なんて言うんだろう。



 触れ合う腕が暖かくて。



 重なる胸が私を落ち着かせて。



 重なるようになぞった足が、どことなく心地が良くて。



 泣きそうになっている顔は、どうしてか心配になる。



 そんな顔、して欲しいわけじゃないのにね。



 そうして、この子と触れ合っている部分だけは、身体を襲う痛みたちも少しマシになっていた。



 でも、痛みは全部が消えて無くなってるわけじゃない。



 ちょっとずつは痛い、でも重なり合っている部分は、暖かさと心地よさが痛みを少し紛らわしてくれている。



 ………………そっか。



 人って別に、毒も、発作も何もなくても。



 こうやって抱き合っているだけで、少し安心できるんだ。



 そんな当たり前の、そんなことを、こうしていると想い出せた。



 本当は、毒も発作も、酒も、性欲も、別に必要なかったんだ。



 たったこれだけでよかったんだ。



 傷んで仕方のない、心と身体を癒す方法は。



 そばに居てもいい相手と、そばに居て触れ合うだけで。



 たったそれだけでよかったんだ。



 ちょっとだけその少女の身体に手を回して、ゆっくりと抱き寄せた。



 少女―――?



 違うでしょ、発作とか毒とか、そんなこと関係なくて。



 一緒に、たった数か月だけど、一緒に暮らしたことに変わりはなくて。



 そんなたった数か月の間に、何度この子に、身体も心も救われていたかなんてわかりもしなくて。



 そんな子を、そんな君の名前を、私は呼んだ。



 「あこ」



 この想いは、もう造ってもらった恋じゃないけど。



 「…………はい」



 この想いは、もう繋いでもらった愛じゃないけど。



 「あこ」



 この想いに、もう君がくれた欲は抱くことはできてないけど。



 「……はい」



 それでも―――いいのかな。



 「あこ」



 それで—――いいのかな。



 「はい」



 君の声が、君の想いが、あるだけで少し心地いい。



 「あこ、あこ」



 燃えるような恋でなくて、しがみつくほどの愛でもなくて、蕩けるほどの欲でもなくて。



 「はい、あこですよ」



 それでも君の名前を呼んでいたくて。



 「あこ、あこだねえ」



 それでも返事が返ってくることが楽しくて。



 「…………そういってます」



 拗ねたような口調は少しからかいたくもなってしまって。

 


 「あ~~~っこ」



 それだけ。



 たった、それだけの想いで君のことを呼んでいたくて。



 「な、なんなんですか、もう!?」



 何度も何度も、瞼の裏で、君と過ごした時間を重ねてみると、どこの君を想い返しても、どうしてか少し笑顔が零れて。



 たったそれだけの言葉を、君への想いだって、口にしてもいいのかな?



 「んー? 言わないとわかんない?」



 「わかんない! です!!」



 そう言って、ちょっと拗ねたように、でもどこか涙目で私のことをじっと見ている君のことを私は思わず笑顔で見つめた。



 そうしてじっとその瞳を見つめ返してから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。



 この想いは、愛でも、恋でも、欲でも、なんでもないとしても。



 それでも自分の胸から零れ落ちた、たった一つの言葉だから。



 「ふふふー」



 想わず零れた笑みに、君が少し不貞腐れたように、こっちを見るから。



 ゆっくりと確かめるみたいに、自分の気持ちを口にすることで、自分自身に教えるみたいに。



 そうやって、私は君に言葉を紡いでた。



 「好きだよ、あこ」



 そんなたった一つの、ありふれた、そんな想いを。



 君に向かって、紡いでた。



 月明かりと街灯だけに照らされた暗い夜の中。



 二人でじっと、椅子の上で抱き合いながら。



 夢が覚めて、それでもまだ残っている、ちっちゃな想いを。



 二人抱き合って確かめていた。







 ※




 恋のことを、ずっと知った気になっていた。


 愛のことも、ずっと解ったと嘯いていた。


 欲のことは、ずっと味わい尽くしたと言いながら、本当に自分がしたかったことはずっとわかっていないままだった。


 もしかしたら私の成長は―――本当の意味での心の奥底の成長は、いつかの頃、親の喧嘩を止めるためにスプーンを落とした時からじつは止まっていたのかもしれない。


 そんなことに今更気付いて、そうして初めて私は自分の奥底の小さな子どもに出会えたような気もしてくる。


 その子のことを、私はきっとあこの向こう側に、ずっと見ていたんじゃないのかな。


 あこのことを助けているようで、ずっとその奥にある自分の影を助けようとしてたんだ。


 心の奥の小さな自分、無邪気な自分、辛くて泣いている自分、したいことをする自分、誰かに愛されたかった自分、誰かに恋をしたかった自分。


 そんな、ともすればくだらなくて、でも私の心の奥底にずっと息づいていたそれを、私はようやく拾い上げることができたのかもしれない。


 あこがくれた『発作』も今にして思えば、痛みに苦しんでいた私には、麻酔のようなものだったんじゃないかと思えてくる。


 痛みを止めて、少しだけ苦しみを和らげて、その間にゆっくりと眠るみたいに崩れた心と身体の調子を取り戻していけたんだから。


 ベッドで二人で目を閉じながら、そんなことを考えて。


 お互いがお互いを抱きしめるみたいに、離さないように、でも傷つけないように優しく抱き合う。


 そうしているだけで、少し気持ちが落ち着いてくる。身体の痛みがゆっくりとマシになっていく。


 そんな感覚を感じながら、私は暗闇の中、あこが眠りにつくのを見届けて、そっと自分も目を閉じた。


 眼を閉じた瞼の裏で、小さな女の子が笑ってた。


 髪に隠れた顔をよく見てみると、どこかで見たことのある顔をしていた。





 『ひさしぶり』



 『うん、久しぶり』



 『なやんでたことは、すっきりできた?』



 『うん、意外と、すんなり』



 『よかったね』



 『うん、よかった』



 『今、あの子のこと、ちゃんとすき?』



 『うん、好きだよ。ちゃんと好き』



 『そっか、むこうもすきっていってくれるかな?』



 『どーだろ……起きたら聞いてみよっかな』



 『うん、それがいいよ。そーしよう』



 『そうだね、そうしよう』




 微睡みの中、小さくねこくんが鳴く声だけを聴きながら。




 私はゆっくりとあたたかさの中、そっと川に流れるように。




 優しく意識をてばなした。



 

 何もない私のままで。




 ただ誰かを好きでいられる、私のままで。




















――――――――――


次回、最終回です。


キノハタ

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