第17話

 凪


 ※



 そういえば、身体が熱かった。


 なんだか、妙に息も荒れていた気がする。


 身体の節々が痛いのは……いつも通り。冬場は身体が強張るせいか、特にひどくなる。だからタバコとカフェイン、あとたまにアルコールで誤魔化すのが常だった。


 そんな、私が生きてきてずっと当たり前だったことを、なんでかその時、道の真ん中でふらつきながら想い返してた。


 そうだ、これが私の当たり前だったじゃないか。痛い、痛い、苦しい、辛いだから誤魔化す。タバコも、コーヒーも、酒も、セックスも、結局は全部それだけのため。


 だって、痛みを誤魔化してくれるなら、なんでもよかった。


 ……まったく、そんなだから、沢山の人に愛想を尽かされるのだと、我ながら情けなくなってくる。


 愛のために交わっていたわけじゃなくて、自分の痛みを誤魔化すためだけにまぐわっていたのだと、そんなことわかったら誰だって鬱陶しく想うだろ。


 道の真ん中で、胃より少し下のあたりがぐじゅぐじゅと溶けだすみたいな、そんなどうしようもない痛みだけを感じながら。



 そんなことを想い返してた。



 視界が揺らぐ、足に力が入らなくなってくる、痛みだけがただ刻々と増していく。


 ああ、痛いな。ほんっと痛い。この何度も何度も、繰り返すような終わりのない痛みだけは、何時まで経っても、慣れていけそうにない。



 ……でも、最近は、ちょっと忘れてた。



 なんで痛みを忘れたりしてたんだっけ。


 上司からのパワハラは相変わらずだし。勤務時間がクソ長いのも今更だし。私がどうしようもない奴なのも今更だし。体調悪いのもずっと前から変わってないし。



 なんだっけ。最近、変わったこと。



 ……………………。



 ああ、そっか。



 家に一人と一匹、居候が増えたからじゃんね。



 今日は何を買って帰ったら、あこが驚いてくれるかなとか。


 ねこくんの猫砂はどうしようとか、あの缶詰がいいのかなとか。


 あこの身体のことが分かった後は、どうやって対処しようとか。どこまでならあこに踏み込んでもいいのかなとか。どうやって接してあげるのがいいだろうとか。


 そうやって、考えてあことたくさん話をして。


 考えたり、悩んだり、期待したり、笑ったり。


 そうやってたら、痛みなんて感じてる暇もなくて、すっかり忘れていたんだっけ。


 いやいや、手助けするつもりで家に連れ込んだのに、結局私の方が救われてたなんて、よくあるオチじゃん。


 まったく、こんな私のどこがまともな大人だっていうのか。


 いい加減立ってられなくて、道の真ん中で独りうずくまってから、やれやれと荒れた呼吸でため息をつく。


 ああ、お腹痛い。つーか、ちょっと気持ち悪い、なんなら吐きそう。


 ぐじぐじと内臓に硫酸でも垂らされてんじゃないかってくらい、溶けるみたいに蝕むような痛みが腹の奥で渦巻いてる。まじでどうしたんだろ、なんか悪い物でも食べたかな、あこが食中毒とかしてないといいけれど。


 ああ、だめだ。身体の調子悪いと、思考も段々終わってくる。ぐじゃぐじゃと何かが苛まれる音が幻聴みたいに、頭の中で響きだす。悪い想像ばかりがぐるぐると、意味もないのに回りだす。



 ……ふと、曖昧になる視界の中で、誰かが声をかけてくれている気がした。



 誰? 通りすがりの人? まあ、誰でもいいか。



 助けてほしいんだけど、ああ、でも自分でも、どう助けられればいいのかわかんないな。


 長年、誰かに本気で助けなんて求めた記憶もないから、どういえばいいのかがさっぱりじゃん。


 何を伝えればいいんだっけ、何を求めればいいんだっけ。


 ただ与えることだけは楽なのに、貰うとなると、なんでこんなに色々と考えなきゃいけないんだっけ。


 そういえば、子どもの頃、どうやって助けをよんでいたんだろ。


 上手く想いだすこともできやしない。


 というか、会社に行かなきゃいけないのに。前、休んじゃったから、さすがにまたすぐに休むわけにもいかないし。



 「―――ん!」



 ……ん、だれ?



 「―――なぎさん!」



 あれ、あこじゃん。



 焦点がぼやけて、いまいちわかんなかったけど。



 声かけようとしてくれてたの、あこだったのか。なんでこんなとこ、いるんだろ。



 わからないまま、あこのほうに手を伸ばして、わからないまま、あこに体重を預けた。ああ、上手く座り込むことすらできてない。



 ほっとどうにか息を吐く。とりあえず、あこがいたらなんとかなるか。



 私が本当はあこの面倒みなきゃいけないのに。まったく、なにやってんだか。



 なんて言ってる場合でもないんだよねえ……。いい加減、腹痛が頭の中の半分くらいを、とっくに埋め尽くし始めていて―――。




 ―――――――・。・・。・・・。



 ごぼっと腹の中で、何かが沸き立ったような気がした。



 気のせいだ。そんなことはもちろんない。



 ない、けれど。



 沸き立った泡が、自分の服の下の方で弾けるような感覚がした。



 同時に、自分の股のあたりで何かが、どろったした粘度を持った何かが、地面と私の服の間で染みだすような、そんな感覚。



 …………。



 ああ、これ、つまり、そういうことか。



 はっはっは、いい年して情けないなあ。我ながら。



 ちょっと自分が情けなさすぎて、死にそうになってくる。



 でもまあ、言わなきゃ、とりあえず、あこに。



 だから。



 「あこ」



 って名前を呼んで、声が小さいから聞こえるように耳元で。



 「どうしよう急に生理きた………………ごめん」



 そう情けなく告白することしか、できなかった。






 ※



 愛心



 ※


 

 とりあえず、その後なぎさんに肩を貸して、急いで部屋にとんぼ返り。


 私の手持ちのナプキンをとりあえず、なぎさんに渡してトイレに入れてる間に付けてもらって。


 その間に私はとりあえず急ぎで、薬局まで走って生理用品を買い込んで。普段どういうのつかってるかわかんなかったから、目につくやつは大体買って。ついでに痛み止めとかも買い込んで。


 明らかに熱もあるし、調子も悪そうだったので、トイレでぼーっと座ってるなぎさんをベッドに抱えて、着替えといっしょに寝室に放り込んで。あとは血で染まった下着とかスーツは回収して。


 それでも仕事が~、なんてなぎさんが言ってるから、スマホを持って来てなぎさんに会社の連絡先を聞き出してから、代理で休みの連絡入れる。主任とかいう女の声がなんか言ってたけど、「同居人です」「体調悪いです、なぎさん家を出られません」「有休はちゃんと使ってください」ってごり押した。なんかいけ好かない、感じが会話の節々に感じたけれど、全部無視して一方的に言い切った。



 という一連が終わって、なぎさんのベッドの隣に帰ってくるまでおおよそ十五分。



 うーん、焦った。なんならこの前、玄関で襲われた時より焦ってた気がする、なにせ襲われるのは慣れてるし。逆に、こんなことは初めてだ。多分、今この瞬間だけは、私、世界一仕事ができる女だったに違いない。


 とまあ、そんな感じで、世界一のキャリアウーマンこと、私は無事仕事を終えたのだった。



 「ぷひ~~~」


 と、ベッドで寝間着に着替えて横になってるなぎさんの隣で息を吐く。うーん頭から煙出そう。なぎさんに拾われてからは、ずっと日中はごろごろ生活だったから、体力が落ちてる気がするなあ……。


 いかんなあ、なんて考えてたら、ぽすっと頭に何かが振ってきた。


 ちょっと視線をあげると、さっきまで少し眠りかけてたなぎさんが、私の頭に手を置いて、よしよしと撫でてくれていた。視線はどことなくとろんとしてるけど。


 「頑張りました~~」


 「ありがとね……、あこ」


 まあ、今はしんどいのはなぎさんだから、あんまり私が労われてるわけにもいかないけれど。ちょっと疲れたので、少しだけ、素直になでられとこう。髪を梳かれたり、耳を撫でられるのはこそばゆいけど、なんだか嬉しい。ねこくんが散々、撫でられにいってるのがよくわかる気までする。


 「というか、生理用品が家にないのが一番焦りましたよ~」


 「あ―……、何年も来てなかったからね……もう、いっかって捨てちゃったんだよねえ」


 苦笑いするなぎさんに少し、くすっときてから、大丈夫そうなのでぽつぽつと話を続ける。


 「生理不順は半年でもう病院に行った方がいいって、ネットに書いてありましたよ?」


 「いやあ……、ないならないで、色々と楽だったもんだから、……つい、病院サボっちゃって……」


 「ちなみに、なんで止まってたんですか?」


 「うーん、多分、シンプルに栄養足りてなかったんじゃないかな。ほら、最近、あこが料理作ってくれるようになってから、ちゃんと食べるようになってたし。だから栄養足りて生理が復活したんじゃないかなあ……」


 「わーお……そういえば、なぎさん、駄菓子だけで夕食済ませてた時、ありましたね……あんなの続けてたら、生理も止まるかそりゃ……」


 「おなか減っても、タバコ吸ってたら誤魔化せたしね……、さすがにあこもいるのに、そんな夕食で済ますわけにもいかないから、今はしてないけど」


 「居候することで、大変ご迷惑をかけているのは分かったうえで言いますが。私を拾っといてほんとよかったですね、なぎさんの体調的に…………」


 「あはは……それはほんとに、そう。今日も久しぶりにお腹痛いなって感じたとき、ああ、あこと喋ってたからこういうこと忘れてられたんだなーって、改めて思っちゃったもんね。よくよく考えたら、私いっつも身体のどっか痛かったんだよ、あこと喋ってたら忘れるんだけど」


 「なんと、私との会話に鎮痛作用が……。せっかくなので、これからはなぎさん専用バファリンと呼んでください。私の九割はやさしさでできていますから」


 「それはまたいやに比率高いね、ま、でもあこはそれくらいありそうかも」


 「……ウソでーす。実際は、優しさの含有率は27パーセントくらいでーす。この度は当社の記載に誤りがあったことを大変謹んでお詫び申し上げます。ぱしゃぱしゃー」


 「記者会見までが早すぎるなあ……。ていうか、えー……、もうちょっと入ってるでしょ六割くらい」


 「仕方ないなあ……顧客の要望にお応えして、六割の優しさで頑張ってあげましょう。だから、なぎさんは今日はゆっくり寝といてくださいね、何年かぶりの生理で多分、身体びっくりしてますから。なんなら病院行きますか? いくのしんどかったら、売人のヤローに、問診させますけど」


 「いや、いーよ。ゆっくり寝てる。……でも、生理痛なんかで、会社休むのすんごい罪悪感あるけどね」


 「……身体がやばい、動けない、ということに怪我も、病気も、生理痛も違いがあるんですか?」


 「まあ、うん、ないけどね……ほら、人に言われるかもだし、いろいろ」


 「そんなもんほっとけばいいのです。私は知らん人間の意見より、なぎさんの方が大事です。なぎさんも、そんな奴らのいうことより、ご自身を大事にした方がいいと想いますよ」


 「……やっぱ、あこは強いねえ」


 「なにせ今だけ世界一仕事ができる女なので」


 「いよ、バリキャリあこちゃん」


 「ひゅーっ、あ、血の跡が付いた服とか下着、どうします? 私が手洗いしときましょうか?」


 「んー……スーツは軽く水洗いしてくれると助かるかな……お湯でやっちゃうと血が固まっちゃうから気を付けて。その後クリーニングかな。下着は……安もんだし、もう捨てちゃうか」


 「はーい、水洗いとぽいですね。じゃあバリキャリウーマン行ってきます。何かあったら、いつでも声かけてくださいねー。本物のバファリンも置いときますし」



 「ねー、あこ」



 「はい、なんでしょう」



 「ありがとね、ほんと」



 「……はい、どういたしまして」


 






 バタンと後ろ手にドアを閉じて、ふうと小さく息を吐く。



 小脇にはなぎさんのスーツと下着、そこには生理のおりものが割とべっちゃりついている。



 お世話はなんとかできたかな、おかしいとこなんてなかったよね?



 貼り付けた笑顔の下で、心臓がうるさいくらいに脈打っていたのを気づかれていなかったかな。なぎさん、そういうとこ目敏いから、実は気づいてたなんて言われかねないんだけど。



 まあ、バレてないと……想いたい。バレてたら……恥ずかしすぎて死んじゃうし。



 今回のお世話は、なぎさんのためだから必死に出来た。必死になってたから、その前の悩みとかもなかったことにして、過ごしていられた。



 なぎさんが結局、毒の症状が出てなかったのも何よりで、なぎさんが傷つかなくてすんだし。なぎさんの生活を壊してしまうことも、なかったのは何よりで―――。




 そう、何より……なのにね。




 あの時、あの瞬間。



 なぎさんが発作を起こしてしまったかもって想った、あの瞬間。



 私は、頭のどこかで――――それを



 なぎさんが、私の毒にあてられて。



 なすすべもなく、その衝動に囚われるままに、その手で、その口で、私の身体に手を出すことを。



 どこか、




 抱きしめられることを。



 口づけをされることを。



 服を脱がされることを。



 触れちゃいけない場所に触れてもらうことを。



 心の、どこかで、考えて、想像して、願って、求めて。



 …………私は。



 性欲なんて、ゴミみたいだって想ってた。自分に対して、あれだけ散々ひどいことされてきたから。そうやって、性欲で人を見るなんて、最低だってずっとそう想っていた、いたのに。



 そのゴミみたいなものを、結局、私自身も抱えて囚われてしまっているんじゃないのかな。



 そう想うと、吐き気がしてきて。なんでこんなに気持ち悪いんだって、自分を消してしまいたいような気さえして。



 なのに、胸の奥が、頭の奥が、身体の表面全部が、心の奥の底の方まで。



 『して欲しい』―――っていう、酷い欲に満たされているのがわかってしまって。



 ああ、ほんとに、私って、最低なんだなって。



 そう心の底から想えてしまった。



 結局、私も、私のことを犯そうとしてきた、名前も知らない奴らと、両親と、同じ存在でしかないのかな。



 いや、そうなるように毒を振りまいてる私が、結局、一番、最悪なのか。



 とことこ歩いて、廊下の途中でねこくんとすれ違う。



 にゃあ、とねこくんが鳴いたけど、私は無視してそのまま浴室に入って、後ろ手にドアを閉めた。



 それから、手の中にあるなぎさんの服と――――下着を、じっと見つめた。



 なぎさんのおりものが―――――経血がついた、その下着を。



 見つめたまま、目が離せなくなっていた。



 ああ。



 もう。



 ほんとに。



 最低なんだね、私って。




『あなたは―――まるでそう、フィクションに登場する、サキュバスや淫魔のようなものですね』




 そんな、いつかの売人の言葉が、頭の奥で小さく小さく響いてた。

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