第16話
その日、目が覚めて仕事に行く前のなぎさんに声をかけた時、あれって思わず口をついて出そうになった。
一つ一つのサインはとても些細なもの。
頬が少し紅い、気がする。
足取りが少し覚束ない、ような。
呼吸が少し短くて。
私に向ける視線がどことなくぼーっとしている。
一つ、一つはとても些細で、だからどうってものでもない。
でも、なんとなく心に小さなしこりを残すのには十分だった。
――――もしかして。
ドクン、と胸が脈打ち始めるのを感じてる。
仕事に向かうなぎさんを、ねこくんと見届けて、独りになってから考える。
もしかして、なぎさんに毒の症状が……?
一分くらいもやもやとした気持ちを抱えてみたけど、結局我慢できなくて。
私は急いでコートを羽織ると、そのまま部屋を飛び出していた。
ねこくんがにゃあと傍で鳴いていた気がするけど、気にしてられない。
だって、もし、毒の症状が出始めてたら。
どこで誰かを襲うとも限らない。
売人の薬もどこまで効くかなんてわかりっこない。
そうなったら、ダメだ。なぎさんに誰かを傷つけさせるわけになんていかないし、そうなったらなぎさん自身も、きっと傷ついてしまうから。
それに、なにより。
なぎさんが、私の知らない誰かに、
胸の奥が千切れて、孔が空いてしまいそうになる。頭の奥の方から血が冷えていくみたい。
息が荒れて、身体の体温が全部そこから抜け出してしまいそうになる。
必死に目尻から何か零れそうになるのを感じながら、アパートを飛び出してなぎさんの背中を探す。
あれ、いない。さすがに出るのがちょっと遅すぎたんだろうか。
息が荒れる。その音が何より五月蠅い。どっちだっけ、なぎさんんがいつも家を出てから向かう方向。
焦る。焦るまま、足を動かす。
曲がり角を二つ曲がる。
あ、いた。
安心で思わず漏れた息が長くて、慌ててつんのめりそうになる。
やばい、ちゃんとしなきゃ。そう想って、コートのフードを被り直して、ぱっと周りを見回して他に誰もいないことを確認する。
なぎさんの足取りはやっぱりどこか覚束ないようにみえる。ついて行って、様子をみなきゃ。
ただ、こうやってついて行ってることは、知られないほうがいいような気もする……。なぎさん自身が自分の変化に気付いてるかもわかんないし。あなたが人を襲わないようについて行きますなんて、言ったら気分を悪くさせてしまうかもだし。それが、私の毒のせいなんだから、余計だよね。
だから、今日はこのまま、なぎさんに知られないまま。こっそり後をついていこう。
もし、何かがあったその時は―――。
ぎゅっと手を握りしめて、浅い息を整える。
覚悟を決めろ、私。
私のわがままで始まった関係なんだから、責任はちゃんと取らなくちゃいけないんだ。
逸る息のまま、なぎさんの後ろをそっと音を立てないようについていく。
少し離れたところにあるあなたの背中を、見逃さないようじっと見つめながら。
吐いた息が、少しだけ長くて、熱かった。
※
愛なんてどんなものかは知らないよ。
恋がどんなものかも知らないよ。
欲だけはどんなものかは知っているけど。だって、たくさんぶつけられてきたし。
たくさん、たくさん見てきたから。それに溺れて身を滅ぼす人を、それを暴力に変えてぶつける人を。
たくさん、たくさん見てきたから、どういうものかは知っているつもり。
それがみんなの胸の内にもあることを。
そんなのコントロールできないなんて、バカじゃんねと思ったりもしたけれどさ。なんとかしてよ、あんたのうちから湧いてきたものなんだから、あんたが処理してよってずっとそう思ってけど。
人がその欲のせいで苦しむことを知りました。
誰かとの関係がその欲のせいで壊れることを知りました。
そして、その欲の元凶が私であることを知りました。
まあ知ったところで、知らない人に触れるられるのは怖いし、知っている人相手でも無理矢理迫られるのは辛いことに変わりはなくて。
昨日まで私に優しく笑いかけていた人の視線が、欲に染まって私のことを犯しにくるさまはある種、悍ましくさえあったよね。
どれだけ理性的に装っても、結局のところ人は欲を持った動物なのだと知っちゃった。思い知っちゃったっていえばいいのかな。
私は恋を知らないけど。
それは愛欲と何が違うんだろ。
私は愛を知らないけど。
それは性欲と何が違うんだろ。
私は欲しか知らないけど。
そこに想いは一体、どれだけ残っているのかな。
ドクン、ドクンと脈打つ何かを感じながら。
身体の奥で私の心を突き動かす誰かの手を感じながら。
この想いが、この感情が、この衝動が、この欲が。
間違いなことを、きっと私は他の誰より知っているけど。
それでも、ただ焦るような何かを背を押されるまま。
目の前を歩いて居た、あなたの膝が少し崩れた。
あ、と思わず声が漏れる。
道の隅っこ、少し調子が悪そうにお腹のあたりを抑えて、小さく蹲る、あなたの背中。
声、かけた方がいいかな。やっぱり調子悪くて、というかもしかしたら発作なんじゃ。
なんて、思考をしかけた時だった。
ひざを折った、あなたに対して、通りすがりの男の人が心配そうにその視線を向けていた。
あ、あれ、声、かける気だ。
声、かけて。
なぎさんがもし、私の毒の発作を起こしてたら。
頭の中で。
頭の中で。
頭の中で。
―――その男の人を抱きしめる、あなたの姿を描いてしまった。
身体が、動く、勝手に。
走れ。
走れ。
走れ。
「なぎさんっ!!」
ああ。
ああ。
ああ。
この気持ちはなんなんだろ。
私の声に驚いた男の人が、なぎさんに伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
なぎさんの顔がゆっくりとこっちに向く。やっぱりどこか調子は悪そうだ。苦しそうに眉をひそめながら、私のほうを見ている。
私は思わずなぎさんと男の人の間に入って、その人のことを目を細めて睨むように見てしまう。
この男の人はきっと善意の人だ。それに違いはないけれど、今、なぎさんには触れて欲しくない。
その人が、どこか慌てたように足早に立ち去るのを、私はなぎさんを背にかくして、じっと睨み続けてた。
ふうと息を吐いて、ようやくあなたの方を振り向いた。
勝手についてきてごめんなさい。大丈夫ですか。それと、あとは、えーと。
そんな風に口を動かして、しどろもどろになりながら、なぎさんの顔を見た。
すごく、紅い。あと、どこかぼーっとしてるのかな、目の焦点があってないような。スーツ姿のまま、じっと座り込んでしまって、身体にもどうにも力が入っていないみたい。
やっぱり、毒の発作?
なんて考えていたら「あこ」と呼ばれて、思わずはいと短く返事をする。
心臓が飛び出してしまいそうなくらい、どくどくと脈打っている。
なぎさんの手が、すっと私の身体の方に伸びてきた。
ああ、立ち上がるのかなってその手を、そっと取りかけて。
あ、やば。
これって、やっぱり。
なぎさん発作起こしてる。
肩にしなだれかかるみたいに、地面に膝をついたまま私に体重を預けてくる。
どう、しよう。
薬? なぎさんのカバンに入ってるはず。でも、今、どうやって取り出せば。
どんどんと掛けられる体重が増してくる。その重さに負けるまま、私も膝をついて、お互い座り込みながら抱き合うような姿勢になる。
どう、すれば。え、始まるの? このまま? こんな道の真ん中で?
見ている人もいるよ、なぎさん? 暴走した痴漢でも、私を路地裏に連れ込むくらいの知能は残ってたよ? 初めてがこんな公開でするなんて、聞いてないよ? これから私の性体験の原点、公開プレイになっちゃうよ?
心臓が逸る。頭がわんわんと感情で埋め尽くされる。
えと、あの、その。どう、すれば。
ああ、でも、せめてなぎさんが傷つかないように。
あと、できたら優しくしてくれたいいんだけど。
なんて。
なんて。
なんて。
考えてたら。
なぎさんがそっと耳に口を寄せてきた。
それから、吐息の熱が直に感じられるくらいの距離で、そっと私の耳元でささやいた。
「どうしよ
「はい…………?」
ふと視線を下に向けると、なぎさんの脚の隙間から、紅い染みがゆっくりと広がっていた。
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