第32話
早紀
※
最近、なんか仕事が上手くいってる気がする。
だって、そろそろ繁忙期の割には色々と仕事は回ってるし、報連相に支障も少ない。まあ去年は私が配属されて一年目だったから、ばたばたしたのは仕方ないという気もするけれど。それにしたって、少しは楽に感じてる自分がいる。
なんでだろって考えて、真っ先に思いつくのはあまり思い出したくないことだった。
『毎日、なぎさんから様子は聞いてるからね』
そう、仕事の日の朝のたび、推定十歳くらい下の少女から届く脅迫メッセージ。
彼女との約束は、住良木さんに過度な負担をかけたりパワハラをしないことなんだけれど、それのおかげで嫌でも気を遣う。
今まできつく言っていたことを、どうにか柔らかくなるように言い直して。つい感情的にぶつけていた正論を、できるだけ落ち着いた事実に言い換える。もちろん、住良木さんにだけそれをするのは違和感があるから、関わる部署員全員にそれをして……。
それから、残業もあまりさせられないから、私の管轄の全員で負担が偏らないように仕事の再分配をして。住良木さん独りに投げていた仕事を、情報共有という名目で、色々な人を関わらせるようにして、少しでも負担を全体に分散させる。
そんなことをしていたら、気付けば少しだけ仕事の回り方がよくなってる……気がする。正直、すごい腹が立って仕方のない事実だけど、実際仕事はうまく回ってる。
そのせいか、この前、喫煙所を巡回していたら「最近、主任ちゃん丸くなったねえ」なんて声が聞こえてきた。前までは、私の影口しか聞こえてこなかったって言うのに、まったく。
これが、全部、私が痴態を晒したあの一件から始まっていると想うと、どうにも腑に落ちない、いや腑に落とせるわけないでしょうが。
なんなら、毎晩枕の中で叫びたくなってるくらいには恥ずかしい。そして、何より受け入れがたいのが、私自身が抱えるストレスがあの一件から少し減ってきてること。
理由は………………考えるだけで少し、未だに青痣の残るお尻が疼いて仕方ない。しかもこれ、座ってると少しだけ腰に響くのよね…。でも想いだすと少しだけ身体が火照ってしまう。
ああ、本当に私、どうなってんだろう。
そんな溜息を付きながら、私はそっとパソコンのディスプレイの電源を落とした。
前は昼休みでも構わず仕事をしていたけど、これもどうにもよくないらしい。なんでも周りが休みにくいとかどうとか。ただ、一緒にご飯を食べれるような同僚もいないから、私は休んだところで大して心の安らぎにもならないんだけれど。
それから、仕事机でご飯を食べて汚しても嫌なので、既に人もまばらになった部署を出て、適当に昼ご飯を食べれそうな場所を探す。私は昼ごはん用にコンビニで買ってきた総菜とパンをぶら下げながら、和気あいあいと食事をしている人を尻目に人のいないところを探して歩いてく。
はあ、こういう時間は自分の集団への適性のなさにうんざりする。まあ、営業の成績を誰よりも出すために苛烈にやってきて、社内に散々敵を作ってきた相応の末路なんだけどさ。
それから結局、誰も使ってない喫煙所の近くの休憩所で独り、コンビニの袋を広げることになった。状態的には、便所飯と大差ないわね……。
そんなこんなで、ふうとため息をつきながら、パンを頬張ったときのことだった。
「「「「はぁぁぁっ??!!!!」」」」
……………………?
喫煙所の方から、えらくハモった驚きの声が上がってた。
……何かあったのかな、誰か煙草を五本くわえてそのままジュースでも飲み始めたとか。
そんなことを考えながら、もにゅもにゅとソーセージパンを頬張って、ぼんやりと喫煙所の方を見ていると喫煙所から慌てて数人のおじさんズたちが顔を出してきた。ていうか、うちの部署の人だ、いっつも喫煙所に文句を言いに行ってるからこういう時、少しだけ気まずくなる。今、あまりキツイ言葉もつかえないし。
と、想っていたら、そのおじさんズはきょろきょろと首を回して、ハッと私を発見する。嫌な顔をされるかなと思わず眼を逸らしたら、ぬっしぬっしと私の方に寄ってきて、息を切らしながら喋ってきた。……いったい、何をそんなに慌てているのか。
「しゅ、主任ちゃん、ちょっと、ちょっと来てくれ!!」
え、あれ、私に用事? なんで?
なんて、疑問もそこそこに手を引かれて、背中を押されて、ソーセージパンを片手に持ったまま、無理矢理喫煙所まで連れていかれる。なにこれ、なにこれ、と慌てながら連れていかれると、なかには喫煙所の周りに変わらず驚愕の顔を浮かべているおじさんズと、それに囲まれる住良木さんの姿があった。何やら随分と怪訝そうな顔をしておじさんズや私を見てる。
…………本当になにこれ?
「あ、主任、連れてこられたの? いや、ほんとみんな、どうでもいいことで大げさなんだから……」
住良木さんは少し呆れた調子で私に声をかけてきた。私は軽くどもりながら、うん……と返事をしたけど、肝心の住良木さんに変わったところは何も見られない。タバコを五本くわえてたりもしてないし、そのままジュースも飲んでない。ペットボトルと電子タバコは持ってるけれど。
ほんとに何があったのかと、この状況に首をかしげていると、おじさんズの一人が私の肩をぽんぽんと叩いて、住良木さんの煙草を持ってないほうの手を指さした。
「主任ちゃん、今な。住良木ちゃん、『あれ』を買ったんだ」
「そう、今ここの自販機で、『それ』をな」
そう言って、彼女の手に持たれているものを指さしてくる。……はあ、自販機で飲み物を買うのの一体何がおかしいのか。どうせいつものコーヒーか炭酸飲料でしょって、私は首先を傾げながら、それを見て―――。
――――
「いや、私が何買おうと勝手でしょ別に……」
私とおじさんズは軽く目を合わせて頷きあうと、揃ってぞろぞろと喫煙所の外に出る。
「え、何、みんな何?」
喫煙所に一人残された住良木さんがこっちを覗いているけれど、まだ電子タバコが点いたままだから出てこない。そういうとこ律儀だなと想うけど、今大事なのはそこじゃない。
「
「「「うす」」」
むさくるしいおっさんたちに囲まれながら、私は少し動揺に心臓が揺れるのを抑えつつ、できるだけ感情が出ないように淡々と言葉を紡ぐ。
「本日の議題は、『住良木さんが水を……水を! 買っていたこと』……です。
カフェインも! 糖分も! 何も入ってない!
……ただの水!
これは非常に危険な兆候であると私は考えます……」
胸が痛くなるのを堪えながら、思わず天を仰いで言葉を絞り出す。周りのおじさんたちもどこか目頭を抑えて、苦悶の表情を浮かべてる……。
「あの超がつくほどの、カフェイン中毒者の住良木ちゃんが……」
「ここの自販機のコーラとコーヒーのシェア三割は住良木ちゃんが占めてるとか言われてたのに……」
「この前、自販機の兄ちゃんに聞いて計算したら、もうちょっと割合高かったってさ」
「マジかよ。カフェインってちゃんと致死量あるんじゃなかったっけ?」
「飲み過ぎて耐性できてたんだろ、多分」
「あんたらは私のことをなんだと思ってんだ…………?」
おじさんズと住良木さんの言葉を聴きながら、私は目頭を抑えてできるだけ感情がこもらないように努めて発言をする。ただどれだけこもらないように努めても、言葉の端には自責と悔恨の念がどうしても滲みでてしまう。くそ、くそう……。
「可能性としては、とうとう過労が積み重なり、カフェインが完全に効かない身体になってしまったか……、重度の疾病で医者からのドクターストップ、あるいは味覚障害、幻覚、錯乱等が考えられ……っく……」
「主任ちゃん、あまり自分を責めるな……いや、結構、主任ちゃんのせいな気がしてきたな……」
「何もッ! 言い返せない!!」
思わず顔を覆って蹲る。
ああ、私があまりにも酷使しつづけたばかりに! 私って、ホントにバカ!!
「でも俺も、住良木ちゃんにどうでもいい仕事頼んじゃったよ、断らないから……」
「ていうか、ドクターストップならだいぶ前にかかってなかった?」
「そもそも住良木ちゃん医者に止められて、止めるような器じゃないだろ」
「依存と中毒の王みたいな顔してたもんな、一時期」
「はなーしを聞け―っ!!」
最後に住良木さんが、怒ってとうとう喫煙所から這い出てきたので、私たちは沈痛な面持ちで彼女に向き直る。
「ごめんなさい、住良木さん。私達が不甲斐ないばっかりに……」
「住良木ちゃん、たのむ。ホントのことを言ってくれ……」
「その……余命は何年なんだ……?」
「癌か? 糖尿か? それとも脳梗塞とかか……?」
「私が、常日頃、どう思われてるのかがよくわかりましたよ……」
途方もない罪悪感に襲われて苦悶に顔を歪める私たちに、住良木さんは呆れたようにため息をつくと、どこか拗ねたように目線を逸らした。
「へーん、どうせみんな私のことを、生活習慣病一歩手前の生活破綻者だと想ってたんだ。寿命ほとんどないとか想ってたんだ、へーん」
そうやっていじける彼女を見ながら、私とおじさんズは眼を合わせると、うんうんと頷くだけだった。
「まあ、それはそうかも」
「実際、生活習慣病一歩手前ではあるでしょ」
「言っちゃあ悪いけど、あの生活で、むしろなんで生きれてんの?」
「還暦越えた役員とがん検診でのビビり具合が一緒だもんね、住良木ちゃん」
「うるせー!! 正論で人を殴るなー!!」
そうやって、結局拗ねてしまった住良木さんを残りの休み時間全部を使ってみんなで、なだめたのが今日の昼休みのことだった。
結局、理由を問いただしたら、最近同居人に言われて、それで健康のことに気を遣いだしたってことらしい。
同居人……まあ、深く考えなくても、あの子のことなんだよねえ。
住良木さんの家であった、謎の少女。どことなく妖艶で、煽情的な雰囲気を纏った、でもどことなく幼さを残すそんな少女。
結局、あの子のこともよくわからない、人に襲われやすいだの、人を操れるだの、断片的に教えてもらってはいるけれど、結局正体はつかめてない。
親戚……っていうには、あんまり似てない気もするし。身元は分からないし、扶養届も出してこないし、色々と謎が多すぎる。
ただ一つ分かっているのは―――あの子が住良木さんに間違いなく、確かに影響を与えているっていうことで。
あとはあの子のおかげで、私は一つ、恋か執着か、よくわからない気持ちを諦めたってことくらいかな。
しかも、あの子がやってきてから、あの完全にカフェインどころか色々と中毒者めいていた住良木さんが。誰が言ってもどれだけを苦言を呈しても、生活を改めなかった住良木さんが。自発的に生活を改善し始めている。
何というか、喜ばしいことのような、どことなく悔しいような。
そんな微妙な感覚を胸に抱きながら、私は今日の終業のタイミングで渡された有給届を眺めていた。
これを出すときも結構部内ではひと悶着というか、大騒ぎがあったわけだけど。
日付は丁度、二週間後くらい。
この前、買い物に行ったときに聞いた、あの謎の少女の誕生日。
ていうか、住良木さん、ちゃんと有休とるの、私が知る限りじゃ初めてなんだよね。病欠とか、規定上無理矢理とらせたくらいしか記憶にない。
それだけあの子が大事なのか、それともそうするだけの変化があったのか。
きっと、何かが変わりつつあるんだね、となんとなくそう想った。
それが喜ばしいことかどうかは、まだよくわかってはいないけれど。
例えば、冬が終わって、やがて春が来るような。枯れた雑草の隙間から、花の蕾がゆっくりと芽吹いていくような。
そんな予感だけを感じてた。
そうしてふぅとため息をつきながら、背もたれに体重を預けた、その瞬間。
「イッッ??!!」
腰の隙間に鉄球でもねじ込まれたんじゃないかって痛みが、びきりと嫌な音を立てて響いてきた。
いた、いたい。……うう、明らかにこのまえお尻を叩いてもらった反動が来ちゃってる。
容赦なく叩かれるのは、その瞬間は気持ちがいいけれど、普通にその後の後遺症が辛い……。後遺症まで含めて愉しめるほど、まだ私の性癖は開けていないみたい。
…………いや、こんな性癖開いているのが、そもそもおかしいんだけどさ。
……ていうか最近、おねだりするのに、明らかに少し抵抗が減ってきている自分が怖い。この前なんか、想ってないことをすらすらと言っちゃってたし。なんだご主人様って、しかも呼べば呼ぶほど、私の方が気持ちよくなってたし。
ああ、そろそろ春だ。
変化の季節だ。
そんなことをゆっくりと流れる時間の中で感じながら。
誰もが変わってく、その真ん中に、あの謎の少女が立っているのを考えながら。
―――私はそっと、路地裏で臀部を殴打されているあの感触を想い返していた。
ああ、次はいつ、お願いしよっかな………。
頭の中で誰かが、春になると変態が増えるよなってぼやいてた。
ふふ、うるせえ、ぶっ飛ばすぞ。
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