第31話





 あれから毎日、あことお互い下着姿のまま、抱き合って眠りについてる。


 あことの誕生日の日に、ちゃんと裸で抱き合えるように。


 もう数週間ほどたったから、あこも少し慣れてはきたけれど、それでもまだ時々腕の中で震えたり辛そうな顔をしている時がある。


 きっと、たくさんの誰かに襲われてしまった記憶が、あこの頭の中で何度も何度も呼び起こされて、彼女の心を痛めているんだろう。


 そういう様を見ていると、あまりいい方法じゃないのかもしれないなって、正直、想う。なにせこれはいってしまえば、傷口に無理に触って治そうとしているようなもの。本当はもっと時間をかけてゆっくり傷口を塞いでかないといけないのかもしれない。


 だって、心の傷は、どれだけ理性を働かせても、どれだけ意思を貫いても、そう簡単には消えて無くならないから。


 あまりにも痛ましい経験が、その人の脳に、本能に、直接恐怖を植え付けてしまって、中々剥がれてはくれないから。


 そういえば、あまりに強すぎるトラウマを持った人に対しては、カウンセリングですら逆効果になったりするって、知り合いのカウンセラーが言っていたっけ。


 『カウンセリングていうのは手術みたいなものなんだ。お腹を開いて、患部に触れて、病巣に直接触って改善する。……でも、今まさに病気でボロボロの人は、手術に耐えることもできない。まずそういう人の相手をするときは、手術に耐えられるようになるまで、ゆっくり時間をかけるしかないんだよ』


 そんなことを言っていた。男だか女だかよくわからない変なカウンセラーの人だった。


 だから、心の傷に万能薬みたいなものがもしあるとするなら、それは時間だけってことらしい。


 何年も時間が経って、ようやく大きな傷口を身体が徐々に塞いでいくのを待つみたいに、ただゆっくり時を待つことでしか解決しないこともあるらしい。


 あこが、身体の性質に気付いて、それのせいで傷ついてどれくらいの時間が経ったんだろう。


 十五歳の、一番多感な時期の女の子にとって、その時間はどれだけ重く、痛く、苦しいものだったんだろう。


 想うことはできても、きっと本当の意味でその感覚を知ることは、私にはできないか。その人の苦しみは突き詰めてしまえば、その人にしかわからない。その傷が重ければ重いほど。他の誰かには理解してもらえなくなる。


 私にはこの子の痛みを全てわかってあげることはできない。


 だから、せめて今は、その苦しみが少しでも和らげばいいとだけ想った。


 下着姿のまま私の腕の中で震えるあこの温かい鼓動を感じながら、そんなことを考えた。




 ただ、そんなことを考えているうちに、ふと私自身はどうなんだろうなんて、ぼけやけた想いが浮かんできた。


 もう、心の傷は癒えたのかな。


 私が傷をたくさん負ってから、すっかり、たくさんの時間が流れたけれど。


 もうカウンセラーの人に会ったのも、大学の頃、以来なんだけど。


 もう、私の傷はちゃんと癒えてくれたのかな。


 少なくとも、少しくらい塞がってたりするんだろうか。


 今なら、あこに尋ねられたとき、うまく応えられなかった私の過去を、少しでも振り返ってみることはできるのだろうか。


 考えて、考えて、考えながら眼を閉じた。


 最近、そんな夜を、過ごすことが少しだけ多くなっていた。


 



 ※





 「なぎさんはひとりで、……そのえっちとかしないんですか?」


 いつもの夜の、寝る前に抱き合う時間に私の腕の中から、あこがそんなことを聞いてきた。


 「…………するよ? ……どうかした?」


 できるだけなんでもない風を装って返事する。前の一件以来、あこにそういうことを尋ねられると少しだけ気恥ずかしくなってる自分がいる。三十前の前も後ろも開発済みの爛れた女が今更何を恥じらってるんだって感じだけれど。


 そんな私を、あこは腕の中からじーっと上目遣いに見上げてくる。頬が少し紅いから、言ってるあこ本人も恥ずかしいらしい。


 「……ですよね。いえ、その前、お話したとき、寝る前はいっつも……してるっていっていたので」


 「ああ……」


 そういえば言ってたね、そんなこと。我ながら、色々ぶっちゃけているというか、恥じらいもくそもないというか。


 もう電気も消して、外の街灯の光くらいしかない部屋の中。お互いなんとなく声を潜めて、そんなやり取りを繰り返す。こそこそとまるで秘密の話をしているみたいなのが、少しだけこそばゆい。ねこくん以外、誰も聞いてやしないっていうのにね。…………麻井の奴ももう聞いてはいないはずだよね、多分。


 なんか不安になったので、私はなんとなくそっとベッドの脇に置いてあったあこのスマホを手に取ると、できるだけ違和感のないようにさりげなく電源をオフにした。幸い、あこはちょっと私の胸に顔をうずめていたみたいで、気付いてない。


 「その……私が、一緒に寝ちゃってて、お邪魔になってないかなって……それしないと眠れない的なこといってましたし」


 ……ああ、言ってたねそんなこと。ていうか、そうあこと一緒に眠るようになってから、そういや私、全然独りでしてないんだよね。今更だけど、不思議な話だ。そうしないと眠れなくなって、何年経ったかもわからないのに。


 「んー、別に大丈夫だよ。あこが抱き枕になってくれてるし」


 そう。なにせこの抱き枕、あったかいし、柔らかいし、可愛いし、いじらしいし。あとついでに、だいぶえっちだし。最強の安眠グッズとして売り出してもいいくらい、まあ、今のところ私専用だから売り出す気は微塵もないんだけれど。


 「ふぇ……え、えへへ…………いや、そうじゃなくて、我慢してませんか? ちゃんと眠れてますか? そこが気になっただけなんです」


 俯いていたあこの顔ががばっと上がって、夜闇の中でもじっと眼光がこちらを覗いているのがよくわかる。ちょっとだけ目の奥が光って、ねこくんみたいになっている。そんな姿に私は思わず笑みをこぼしながら、首をゆっくり横に振った。


 「ほんとにだいじょーぶ、というか、私が独りでしてたのって、性欲のためっていうより…………」



 そこまで口に仕掛けて、言葉が止まった。



 あこは不思議そうに首をちょこんと傾げている。



 口に仕掛けて止まったのは、それが口にするのもはばかられる内容だったから――――じゃ、どうにもない。



 いや、口にするのが憚られる内容なのは、確かにそうなんだけれど。



 どっちかっていうと…………。



 ―――口にするのも憚られる内容なのに、私自身の傷に触れかねない内容なのに、……のか。



 ………………あれ? この前は絶対、話すことなんて出来っこないって想っていたのに。



 なんでか、今は、少し話せそうかもって想ってる自分がいる。



 もちろん、全部は話せないけれど、ちょっとくらいならいいのかも……って。



 そう想ってる自分がいる。



 ……………………。



 「……私さ、結構、常に身体が痛いんだよね」



 「…………」



 ぽつりと零した言葉は明るくなくて楽しさなんて欠片もなくて、でも悲しさや苦しさもそんなに伴っていなかった。



 「多分、色々身体に無理させすぎてるから、自律神経とか割とダメになっちゃっててさ、そのせいでずっと身体が隅々まで痛いんだけど」



 「………………」



 なにごともないみたいに、自分の身長でも語るみたいに、言葉が淡々と漏れていく。



 「だから、寝る前は痛みを誤魔化さないと、ちゃんと寝れなかったんだ。それが一人えっちしたり、お酒飲んだりってことだったんだけれど」



 「……………………」



 そうして、あこもそんな私の言葉を、ただ黙って聞いていた。



 「あこと一緒に寝てると、あったかくて、柔らかくて……なんか安心できて、あんまり痛いの感じないから」



 「………………」



 当たり前に話して、当たり前に聞いていた。



 なんでもないことを、まるで、なんでもないみたいに。



 暗い布団の中、二人でこっそり秘密を打ち明けるみたいにして。



 「だから、今は本当に大丈夫……かな」



 「………………」


 そうやって口にすると、自分の中の、なんだかどうしようもなく張り詰めていた糸がゆっくりと緩んだような感じがする。


 ふうと吐いた息で、身体からゆっくりと力が抜けていく。布団の底に沈み込むみたいに、あこの身体に回した手と一緒に、そのまま水底にまで沈んでいくみたいに。


 吐いた息で指先が少し暖かく痺れて、感覚が緩んでいくのを感じてた。


 その間もずっとあこの温かさを、胸と、腕と、腰と、足と、時折遊ぶみたいに絡める足の指の間に感じながら。


 そんなことを話してた。


 「…………ありがとね、あこ」


 「…………はい」


 あこは少しだけ俯いて、ちょっとか細く消え入りそうな声で、小さく返事をしてくれた。照れているのか胸に当たる顔の温度が少しだけ熱くなるのを感じてる。


 それにしても、あこ傷を癒さなきゃなんて考えて始めたけれど、実際のところ、やっぱり私のほうが癒されてるのかもしれない。


 柔らかいさらさらとしたあこの髪を撫でる、その感覚すらどこか心地いい。


 そうしていると、微睡みが自然と私の瞼を下げてくる。意識が少し曖昧になって、ぼんやりと眠りへと誘ってくる。まるで痛みなんてないみたいに、自然にゆっくりと。


 こんな感覚も、よくよく考えれば随分と久しぶりのような気がするね。


 「…………あの、なぎさん」


 そうやってゆっくりと息を吐いてたら、あこが少し意を決したように、私の方を見上げてきた。


 「…………なに? あこ」


 応えた自分の声が、少し眠気で蕩けているような気もしてる。


 微睡んだ意識が身体に少しだけ熱を持たせて、それがまたあこの温かさと合わさってどうしようもなく心地がいい。


 そうやって、微睡みかけている私に、あこはゆっくりと何か確かめるみたいに、口を開いた。



 「私からも、その、キス……していいですか?」



 そんな言葉に、私は思わずクスって笑ってしまった。



 「ふふ、どーしたの?」



 「えと、その、胸のあたりがぎゅーってして、だから、どうしてもしたくなったというか……」



 暗闇の中でもわかるくらいあこの顔は真っ赤になっていて、恥ずかしさのあまりどこか泣きそうな顔になっているのが少し面白い。私は眠気で微睡ん意識のまま、くすくす笑ってその頭をゆっくり撫でた。


 柔らかくて少ししめっぽい感触を楽しみながら、抱きしめたあこから香る甘い匂いを感じ取る。


 「いいけど、今、大人なキスなんてしたら、私、ムラムラして襲っちゃうかもよ?」


 口にして改めて自覚することもある。今のが丁度それだった。


 うん、多分、今、唇を合わせたらちょっと歯止めが利きそうにない気がするね。


 微睡んだ思考回路が別にそれでもいいじゃないって、甘く囁いてきやがるし。


 浮かべた微笑みに、あこが少し動揺したように、えっ、って反応することさえどこか愉しく感じてる。あこの身体から漂う甘い香りは、それを助長するようにどこか気持ちよささえ感じさせてくる。


 うーん、きっと、今なら最高の初体験にしてあげられるかも。


 それくらいには気分がいい。


 優しく。


 優しく。


 じっくりと時間をかけて。


 ボタンを一つずつ外すみたいに、緊張を一つずつ解きほぐして。


 あこの怖さを、身体のこわばりを、ゆっくりゆっくりほどいていって。


 まずは、小さな気持ちよさから教えてあげて。


 そして、触れあうことの心地よさを感じさせてあげて。


 そうしたら、ゆっくりと、じっくりと、その気持ちよさを、一番感じられる所まで連れていってあげられるかも。


 暖かくて。


 優しくて。


 気持ちよくて。


 安心できて。


 そんな、ちょっとやそっとじゃ越えられないような初体験にしてあげられる。


 きっと、これからのあこの人生の中で、ずっと忘れたくてもなかなか忘れられないような、そんなこの子の記憶に遺り続ける、そんな体験を―――。



 ――――なんて。



 まあ、まだ違うよね。



 まだその時じゃあ、ないもんね。



 焦ったらだめだから。ゆっくりゆっくり、過ごさないと。



 だって、一線を越えるまでのこの時間すら今は代えがたいほどに愛しいから。


 

 味わいつくさないと、もったいないでしょ。



 だから、顔を真っ赤にしてちょっと固まってるあこの額に、そっと優しく口づけた。



 「じょーだんだよ、じょーだん」



 そう言って笑ったら、あこは顔を真っ赤にしたまま優しい手つきで、ぽかぽかと私を叩いてきた。



 「あはは、ごめんてあこ」



 「ぬー! もー! なぎさんはー! いっつもそうなんだからー!! たまには私からさせてくださいーー!!」



 なんて笑っていたその瞬間に、今想うと、ちょっとだけ油断してた。



 いっつも私からしてたから、自分が主導権を取るのに慣れ過ぎてしまってた。というか、私からはあこのことは好きだけど、あこ側から私を好いてくれるってことに、いまいちまだ理解が追いついてなかったみたい。



 だから、あこ側から積極的になるかもしれないってことを、私はどこか思考の中から抜け落してしまってた。



 だからそう、暗がりの中ふっとあこの瞳が怪しく煌めいた時、私は反応できなかった。



 えっ、って声すら間に合わない。



 まるで、そうねこくんみたいに、獲物を見つけて飛びかかかる夜行生物みたいに。



 しゅっと勢いよくあこの頭が、柔らかい髪と一緒に私の首元まで覆いかぶさるって、身体ごと私に馬乗りに組み付いて。



 それから、少しの痛みと、柔らかさ。



 それと、何かを強く吸うような、短い水音が鳴り響いた。



 呆けている間に、ちゅぽっという、離れる水音を鳴り響いて、私の首元に少しの痛みと甘い香りだけを残してた。



 唖然としたまま見上げたあこは、私の上で馬乗りになったまま。どこか満足そうに微笑んで、自分の唇をゆっくりと舌で舐めずっていた。



 妖しく光る瞳に、薄闇にぼんやりと浮かぶ下着姿のあこは、そう表現するのが馬鹿らしくなるくらいには、妖艶で、煽情的で、何よりあまりにも綺麗すぎて。



 私のお腹の上に跨ったまま、まるで悪魔みたいにじっと私のことを見つめてた。



 …………あこに言ったら、また怒られそうではあるけれど。



 正直、ホントにサキュバスか何かだって言われても納得できしまいそう。



 まあ、私がもうこの子の魅力にすっかり取り込まれているから、余計かな。



 私の上で、仕返し成功とばかりに満足げに微笑むあこの顔をみたままに、私はやれやれとため息をついていた。



 なんだか気付けば、すっかり虜にされているような、そんな気がする今日この頃のことでした。



 それも悪くないって想うあたりが、なんかほんとにもう、どうしようもないって感じがしてた。

















 翌日、鏡を見たら、案の定、首元にくっきりと虫に刺されたような跡があった。



 うわあって、思わず苦笑いする私の隣で、あこは何がそこまで楽しいのやら、酷く嬉しそうな笑顔だった。



 なんか隠せるのあったかなあ……。

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