第23話

早紀



 なんで、私はこんなに報われないんだろう。



 ずっと他人より頑張ってきたのに、ずっと誰かより苦労してきたのに。



 なんで、こんなおかしい私になってしまったんだろう。



 ああ、でも、それは決まってる。だって、全部このヒトのせいなんだから。



 あの夜から、私の心は、私の身体は、何かがおかしくなってしまっていて。



 ぼーっとする時間が増えて、感情的になってしまう瞬間が増えて、この人の前だとどうしてか冷静にいられない。



 合理的じゃない判断ばっかりして、信じられないようなくだらないミスばかり。それを笑顔でこのヒトにフォローされたり、笑われるたびに胸の奥がざわざわと熱くなって、顔が赤くなるのを誤魔化すために俯くことしかできやしない。



 何かと理由をつけて、このひとと遅くまで残るために残業を命じてる自分がいる。明らかにこのひとにだけ無駄に厳しく突っかかっている自分がいる。おかしい、こんな判断今までの私ならしてないはずなのに。



 このひとの顔を見るたびに、あの夜のことを、あられもなく泣きわめく自分の声と、それを冷淡に見つめるこの人の視線ばかりを想い出してしまう。顔が熱くなって、動悸ばかりが速くなって、頭がちゃんと回らなくなる。



 違う、あんなの私じゃない。



 だって、私は、あんなに泣いて情けなく誰かを求めたりなんかしない。



 違う、あんなの私じゃないんだ。



 だって私はあんなに蔑まれて、いいように弄ばれて、それを悦んだりなんかしない。



 違う、あんなの私じゃない、はずなのに。



 何度も、何度もあの夜のことを想い出す。忘れられない体験を、何度も何度も巻き戻すみたいに繰り返す。そして何より、その記憶を想いだすたびに、自分を慰めてる私自身を何よりも許せなくて。



 だから、あの記憶は覆さなきゃいけないんだ。



 だから、今、ここであの夜の私は違うことを証明しなくちゃいけないんだ。



 だって、あんなの間違いだから。だって、あんなのおかしんだから。



 だって、あんな私、誰より私が認めてなんていないんだから。



 困惑するあなたをよそに、私は自分のブラウスをはだけさせながら、私より背の高いあなたの身体を無理矢理ソファに抑え込む。



 これでいい、私が上だ。この人より、私の方が上なんだ。



 だからあなたは、私を見上げてないといけないんだ。



 あなたのボタンのついてない上着をはだけさせるために、無理矢理に引っ張って胸部を情けなく露にさせる。どくどく心臓が高鳴っていく、顔が高揚で熱くなって、思わず頬が綻んでしまう。



 これでいい、これでいいんだから。



 胸の奥のずっと奥の方が、チリチリとなんでか痛んで仕方ないけど、今は気にしてなんてられないから。



 今はこの人を犯す以外はなんでもいい。



 今はこの人の上に跨る以外はなんでもいい。



 あの夜の記憶を上書きする以外のことは、今はなんでもいいんだから。



 だから、だからだから―――。



 私はあなたを―――。






                    「え?」





             いたい。





 痛い。




 え、痛い。なんで?





 あれ、私。





 殴られた? 誰に?





 というか、あれ、わたし。







  





 



 ※




 凪




 ※



 それが『発作』だと気づいて、慌ててどうにかしようとした時には、もう手を抑えられてそのまま無理矢理ソファに組み伏せられていた。



 焦点の合っていない眼をした主任は、そのちっこい腕のどこにそんな力があったんだってくらい、日常ではありえない力で私の腕を押さえてきた。焦りに近い感情が湧いてくるけれど、咄嗟に声の一つも出てくれない。



 無理矢理に服を引き千切るんじゃないかってくらいに引っ張られて、私の肌が主任の眼前に晒された。そのまま主任は、少しぼーっとしたように私を見た後、軽く震えるような薄い笑みを浮かべてた。



 まずい、まずいと焦りと恐怖ばかりが湧いてくるけど、ちっとも身体は反応してくれない。ああ、っていうか、力強すぎるでしょ、どうなってんだ。





 「そぉいっ!!」






 なんて考えてた瞬間に、主任の頭が横方向に吹っ飛んだ。






 いや、なんか比喩じゃなくて。まじで、すぐそばのソファの背もたれに叩きつけられるほどに吹っ飛んだ。



 は? と思わず口を開けてたら、主任の背後で気持ちよくコーラのペットボトルを振り切っているあこがそこにいた。往年の野球選手かってくらいに、腰の入ったスイングで、ちなみにコーラは1.5ℓサイズ。ほぼ飲まれてないから、重さはそのまんま表記通り。


 

 ついでにそれをやっているあこの瞳が、かつてないほど冷淡で、羽虫か何かをを踏み潰すときのそれだった。慈悲の欠片も持ち合わせていない表情が、あまりにも印象的がすぎる。



 ああ、あこちゃん、そういう顔もできるのね。お姉さん、ちょっとびっくり。



 なんて嘯く余裕もホントになくて。異次元の状況に、私はただ口をあんぐりと開けて見ていることしか出来ないんだけど。



 そんな私をよそに、コーラを振り切ったあこちゃんは、ふんすと力強く鼻息を鳴らしていたのだった。







愛心






 まあ、案の定と言いますか。


 こうなることは、ある程度予想がついていたと言いますか。


 私の匂いが充満しているこの部屋に人が入ってきた時点で、まあ見えていた結果ではあるわけですよ。


 だからあこちゃん、準備は怠っていませんことよ。


 予想通り発作を起こしたその女が、なぎさんの服に手をかけてはだけさせた時点で、私は背後からコーラのボトルを、腰だめに思いっきり振りぬいた。私のなぎさんに何してくれとんじゃと、普段の倍は力を籠めて。


 こういう時のコツは躊躇わないこと、相手に怪我をさせるかもとか、頭を狙うのはまずいとか、やりすぎない力加減をとか、そんなことは後で考えればよろしいのです。


 なにせ第一はこっちの身の安全。半端な攻撃で相手を怒らせるくらいなら、一撃で完全に叩きのめす。相手の怪我とかそんなものは二の次なのだ。最悪大怪我しても、売人の奴に処置させればいいわけだし。


 というわけで、なぎさんを襲いかけたにっくき女上司を吹き飛ばす。そしてなぎさんから離れたのをちゃんと確認してから、空いた方の手でポケットの毎度おなじみペン型スタンガンをぽちっとする。「うぎっ?!」身体が接触してるとなぎさんにも電流いっちゃうからね、気を付けないと。


 「なぎさん、大丈夫ですか? 怪我とかない?」


 「え、あ、うん」


 「おけです。じゃあ、あとは私がなんとかしますね」


 ん、最低限の確認良し。なぎさんは、すっかり服がはだけてえっちだけれど、今はそれどころじゃないのだよ。コーラのボトルを床に適当に置いてから、ふんと息を吐きだして女上司の奴に向き直る。経緯はともあれ、なぎさんを襲いかけたんだ、容赦など微塵もしてあげるつもりはない。


 というわけで、あとはいつも通りの流れですな。ここからは相手に状況を立て直すターンは渡さない、渡してなんてやるものか。


 パーカーの胸ポケットに入れておいたスマホの録画を停止させて、女上司の上に跨るように抑え込む。暴れないように足で両手を抑えて、文字通りのマウントを取る形だ。その後に、ショックで呆けている奴の髪を掴んで無理矢理にこっちを見させる。


 そうして、その視界にさっきこの女がなぎさんを襲おうとした、まさにその様子を突きつけてやる。


 「いい? あんたのやったこと、全部撮ったから。セクハラ通り越して犯罪だよね? 会社の人とか、家族が知ったらどう思うかな? あんたの人生終わっちゃうかもね? これバラされたくなかったら―――」


 バラされたくなかったら―――、どうしよっか。正直、自分にされた以上に腹立つし、もう普通に仕事辞めさせちゃおうか。ていうか、なぎさんにパワハラさせたり、無茶な時間働かせてんのって確かこの人なんだよね。つまり口封じも兼ねて、一石二鳥だとあこは想います、まる。


 まあ、ちょっと気の毒と想わなくもないけれど―――いや、なぎさんに害が及んでる時点で気の毒もくそもないのです。もう二度と顔を見せないように、くらいは言っても許される感じがする。


 そう想って、とどめの一言を言おうとしたところで、なぎさんがこそっと私の視界に入ってきた。あら、どうにか襲われたショックから立ち直れたらしい。そんななぎさんは、視界の端っこから無言で何かを必死にアピールして、私に何か伝えようとしてる。


 んー、なぎさん、今、大事なとこなんですよ。なにせこういう場合は、相手に有無を言わさず、選択肢も与えずに心を折るのが大事なんですから―――。



 なんて、思った矢先のこと。



 思わずハッと息を呑む。



 そいつの肩が軽くプルプルと震えだすのを、抑え込んでいる足越しに感じとったから。



 あ、まずいかな? もしかして、逆上してくるタイプの人か。



 たまにいるんだよね、こっちが脅しをかけると、逆ギレしてきてまた手を出そうとするタイプの奴が。そういう奴相手は、何度も何度でも、無理矢理にわからせてやるしかない。



 フッと息を詰めて、いつでも反撃できるように手にスタンガンを構えた―――構えたんだけど、ただ、その先の展開は私が思い描いたのとは少し違ってた。





 「そんなことされなくても、私の人生もうとっくに終わってるからーーー!!!」






 




 そう言って、女上司は大きな声で泣き出していた。





 表情はぐっちゃぐっちゃに崩れて、ぼろぼろと涙が頬から零れてく。




 …………ん?




 「なんで、なんで私ばっかり、こんなひどい目に合うのかなあ…………」




 そう言って、別に抵抗するでもなく、ただめそめそと俯いて、だばだばと涙で顔面をべちょべちょにしてる。



 おおう、なんじゃこれ。プレッシャーでおかしくなった? これ、私の話を聞く余裕があるかどうかも怪しいんだけど……。



 えー、どうすんのこれ。



 なんて思考に、思わず行動がフリーズする、そんな私を見てなぎさんは視界の端で困ったように額を抑えてた。



 「なんで、私、私、こんなに頑張ってるのに、なんで! なんでよーー!!」



 しかも、さっきまで落ち込んでたと想ったら、今度は急に子どもみたいに泣き喚くし。そんな情けなさの限界みたいな大人を眺めてると、振り上げたスタンガンのおろし先もよくわからなくなってくる。



 んー、こういうパターンは初めてなんだよね……。



 大声で泣き喚く、推定二十代後半のなぎさんの上司を眺めながら、私となぎさんはどうしようもなくしばらく固まることしかできなかった。



 部屋の入り口でこっちを見ていたねこくんが、なー、と少し間抜けに鳴く声と、だいの大人が大声で泣く声だけが、あてもなく部屋に響いてた。






 「なんで、なんで私の人生、いっつも、こうなの…………?」



 「……なぎさん、これ……どうしたらいいやつですか?」



 「あこ……ごめんだけど、ちょっと落ち着くまで待ってあげてくれる……?」

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