第29話



 あこの顔を見たときに、『ああ、やってしまった』っていう言葉がまず浮かんだ。


 私の拒絶に対して、あこはどこか困惑したような、何かにショックを受けているような顔をしてて。そうして、明らかにとってつけたような言い訳で、そのまま部屋を出て行ってしまった。


 呆れられたかな、嫌われたかな、傷つけて、しまったかな。


 膝に乗ってくるねこくんの喉を撫でながら、そんなことを考える。


 やっぱり、私じゃあダメだったかな。


 そんなことを考えてたら、たくさんの私に何かの役割を期待していた、たくさんの人の声がした。そんな言葉たちがくれたたくさんの期待の果てに、私じゃあ誰の役にも立てないのだと知った。


 ダメだなあ、ホントは、演じるなら最後まで演じ切らなきゃいけないのに。


 ちょっとだらしないけど、頼れる大人。傷ついた心を解って、寄り添って、一緒に歩いてあげられる、そんな大人。そういうのになりたかったんでしょう?


 いつだったかの、あの人みたいに。


 言いたいことを聞いてくれて。


 聞きたいことを言ってくれて。


 独りぼっちで寂しい子どもの隣で、そっと一緒にしゃがんでくれるような、そんな大人に。



 ……ああ、でも、そっか。



 あの人も、最後には私の前から消えちゃったんだったっけ。


 私のせいで―――。


 じゃあ、これも当然の結末じゃんね。


 あんな素敵でしっかりした大人にさえ、演じきれない役なのだとしたら。


 私なんかが演じきれるわけないじゃんね。


 ああ、どうしよっか、これから。


 頭が重い、身体も重い、内臓も重いし、指先から足先に至るまで全部重い。血液の代わりに重油でも入ってんじゃないかってくらい、身体が重くて仕方ない。


 動けない、身体は炬燵に突っ伏したまま、一ミリだって動かない。


 ねこくんが不思議そうに私を見て、ごろごろ言いながら、頭を私の腹にこすりつけてくる。


 ああ、どうしよっか。


 このままじゃ、あこに―――。


 息を吐くたびに、重くなる身体を感じながら、そんなことを考えていた。


 眼を閉じたら、どこかへと走っていく君の背中が、瞼の裏に浮かんでた。


 









 ※



愛心



 ※



 「あれ……?」


 恐る恐る家のドアノブを握ったら、鍵がかかってないことに気が付いた。


 なぎさん、いっつもドアの鍵は閉めてるのに、なんでだろ。あれかなあ、私が出て行ったときにそのままになっちゃってたのかな。


 なんてことを考えながら、ドアノブを回して部屋に入った。


 バタンと後ろ手に締まるドアの音がやけに鮮明で、静かな部屋の中、木霊するみたいに響く。それが嫌に耳に残って、気持ち悪い。


 「なぎさん……?」


 呼んでみるけど、返事はない。


 「ねこくん……?」


 足音も、鈴の音一つも聞こえない。


 あれ…………?


 慌てて靴を脱いで、部屋の中を探し回る。寝室、リビング、お風呂、キッチン。


 いない。


 いない。


 どこにもいない。


 なぎさんどころか、ねこくんさえも。


 なぎさんが部屋にいた痕跡は、飲み干された酒の缶だけがぽつんと取り残されているだけだった。


 「え? …………え?」


 出かけてる、のかな。だとしてもなんで、ねこくんまで?


 どことなく、なんとなく嫌の想像が脳裏にじわりと張り付いてくる。


 もし、いつかの隣人の男みたいに、発作に当てられた誰かがここにやってきてたとしたら?


 ぞわっとした感覚と同時に、身体の血が全部抜け出るような錯覚に襲われる。


 だって、なぎさん、今まで急にいなくなるなんてなかったし、ねこくんがいないのも不自然だし。


 悪い想像が、もっと酷い悪い想像を呼び起こす。なぎさん、酔ってた。抵抗なんてできっこない。もしそうだとして、ねこくんがいないのはなんで? うるさいから、追い出された? いや、それにしても、そうだとしてもおかしいよ。


 「そうだ……電話」


 普通に、なぎさんが外に出かけてるだけなら、電話したら出るはずだし。


 スマホを取り出して、慌てて震える手で通話ボタンを押した。


 コール音が、無機質に鳴り響く。


 お願い、でてよ。


 でてよ、なぎさん。


 ………………。


 ………………。


 ………………。



 あれ?



 変な音が響いてた。


 くぐもった、まるで何かが押さえつけられるような音。


 リビングの炬燵の近く、炬燵布団の下あたり。


 嫌な予感がした。


 そこを捲ると、いつもなぎさんが持っている少しひび割れたスマホがあって―――。


 居もしない持ち主を、ただ機械的に呼び出してた。


 え……?


 え?


 まって、落ち着いて。


 落ち着け、あこ大丈夫。嫌な記憶に呑まれるな。


 脳裏に浮かんできた、夜中の訪問者の顔を、首に伸びてくる手を必死に振り払う。


 大丈夫、大丈夫。だって、襲われたにしては、暴れた跡だったり物が壊れた跡がない。


 だからなぎさんは自分の意思で出て行ってる……はず。


 そこまでわかっても、息が荒れるのは止まらない。


 それに自分の意思で出ていとしても、何処に行ったの?


 そうやって考えて。


 ふと。


 希望的で、都合のいい妄想が湧いてきた。




 もしかして、私を探しに――――?




 なんて考えていたその瞬間に、無音の部屋にガチャンと大きなドアの開く音がした。



 あ――――。



 咄嗟に立ち上がって大慌てで廊下を覗く。


 そこにコートを着込んだあなたを見て、その手に抱えられてるねこくんを見て。



 わけもわからないままに、走って抱き着いた。



 「あれ、あこ、帰って――――」


 そうやってあなたが、困ったように笑っているけれど、涙腺が震えてうまく声が出てくれない。


 おかしいな、ほんとに大したことじゃなかったはずなのに。


 なんで、こんなことで泣きそうになってるんだろう。


 なんで、帰ってきたときになぎさんがいない、静かな部屋を見ただけで、こんなに不安になっちゃったんだろう。


 「ごめん、さっきはうまく話せなかったけどさ。やっぱ、なんか違うなって想ってあこのこと探しにいってたんだけど…………」


 そうやって、なぎさんはいつもより少し元気のない声で私に向かってそう言ってくれていた。眼元もどこかしんどそうで、それでも私を探そうとしてくれてたのが、嬉しくてたまらない。


 ううん、いいんです。そんなこと、大事だけれど、今だけはいいんです。


 首を振って、必死に伝える。


 声も出ないままに必死に伝える。


 私となぎさんに挟まれる格好になっているねこくんが、何が面白いのか、泣きかけている私の頬を肉球でべしべし叩いてくる。ああ、もう。なにすんだよぉ、もう。


 「あこ、あこ~? どうしたの、やっぱり私がちゃんと言わなかったから?」


 「ちがっ……うん……です。携帯が…………あるのに、なぎさん、いなくて……ねこくんもいなくてぇ……」


 自分でも何言ってんだかわかんないけど、わからないまま泣いていた。


 あれ、私ってこんなに、泣き虫だったっけ。小さい頃から、あんまり泣かない子どもだった気がするんだけれど。


 「ああ……そっか、すぐ戻るつもりだったから。置いてたんだ、ねこくんはね、なんか珍しくついてくるってうるさくて、しかたなく一緒にね」


 「うぅうぅ……うぅぅん」


 「ほらほら、ほんとにどうしたの?」


 「よがったぁ……、なぎさんもねこくんも、ぶじでほんとによかったぁ…」


 そう言った私の言葉に、なぎさんはようやく少しおかしそうに微笑んでくれていた。まだ顔は少し疲れた様子が抜けないけれど。


 「大げさだなあ、あこは、ちょっといなかっただけじゃんね。ねえ、ねこくん」


 そうやって問われたねこくんは、なーぅと小さく鳴いた後、私達の腕からぴょんっと景気よく跳び下りた。そして何事もない風な顔をして、すてすてとリビングへと行ってしまう。いつまでも泣いてるから、もうほっとくよとでも言わんばかり。


 そんな姿に、思わずくすって笑ったら、なぎさんもくすって笑い返してくれた。


 それから、どうにか涙の代わりに垂れかけている鼻水を頑張ってすすって、がらがらな喉で必死に声を出してみる。


 「ねえ、なぎさん。聞いて欲しいことがあるんです」


 そう言うと、なぎさんの顔がすこし緊張した色になる。


 また、深く聞いてしまうことを警戒されてるのかもしれない。でも、私はそういう顔をして欲しいわけじゃないから。



 ちゃんと伝えよう、私の想いを。



 ちゃんと言おう、私の決意を。



 「私、今までなぎさんにすっごい甘えてた気がします」



 「なぎさんなら、なんでも聞いてくれるし、なんでも答えてくれるって。無意識にずっとずっと甘えてたんだと想います」



 「でも、今日話してて、やっぱりなぎさんにも話したくないことがあるんだなって、そういうのが解っちゃって」



 「正直、聞いた当初はすっごくショックで、どうしたらいいかわからなくて飛び出しちゃいました。……その、ごめんなさい」



 「本当に、どうしたらいいかわからなくて、聞かなかった方がよかったのかなって、すっごく色々考えちゃって」



 「それで、ちょっとだけ早紀に話を聞いてもらってたんです……。最初は自分でもわけわかんなかったけど、話してるうちに、ちょっとずつ気持ちの整理がついてきて」



 「なぎさんにとって、昔のことは聞かれたくないこと……で、いいんですよね? ―――聞いちゃってごめんなさい」



 「でも、本当に聞きたかったんです。私、なぎさんにすんごい、よくしてもらってるのに、なぎさんのこと全然知らない気がしたから」



 「なぎさんが、寝てる時に、泣いてるのをみちゃってから、どういうことでなぎさんが泣くのかとか、なんで泣いてたのかとか、私なんにも知らないなって」



 「そう想ったから、聞いちゃったんです。でも独りで先走っちゃいました、ごめんなさい」



 「お詫びと言っては何ですけど、何かして欲しいことあったらなんでもいってください。今日は私を探して歩かせちゃったし、ほんとなんでも大丈夫です」



 「あと、それでもやっぱり、なぎさんのこと知りたい、聞きたいって気持ちは変わってないので」



 「もし、なぎさんの心にちょっとだけ余裕が出来て、あこのやつに喋ってもいいかもなーって想えたら」



 「その時、話してくれると嬉しいです。いっぱい聞きます、ちょっと変な話でも引きませんし、それでなぎさんのこと嫌いになんて絶対になりません」



 「もしなぎさんが抱えてることがあるなら、私も一緒に抱えたいです。なぎさんが悩んでることがあるなら、一緒に悩んでみたいです。手伝いだってしますし、お話だって聞けるかもしれません。その、ただただわがままなんですけど、それが私の気持ちです」



 「身体は繋がっても心は簡単に繋がらないとは想うんですけれど、ちょっとずつでも近づけたらなって、私はそうあれたらいいなって想ってるので……」



 「だから、その、えと待ってます! すぐになんて無理なのは知ってます。私もなぎさんに身体のこと、毒のこと、全然打ち明けられなかったし、そこはわかる気がするから」



 「だから、つまり、えっとですね……あこはいつでもウェルカム! ということです!!」






 「あの、えと……伝わった……でしょうか?」





 そう言ってあなたに笑いかけてみた。



 変な感じになってないかな?



 ちゃんとうまく伝わったかな?



 怖いことはまだたくさんあるけれど。



 あなたに伝わらないより、あなたとすれ違ってしまうより、怖いことはきっとないから。



 顔を上げてみたあなたの顔は涙に濡れていて、でも少し笑ってくれていた。



 それだけで私はいい。



 それだけで、たったそれだけで。



 幸せだって私は想えた。

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