第27話
凪
※
始まりの記憶は、両親が口喧嘩をしている光景だった。
何の話題だったのかはわからない。私も小さかったし、お金のことか、私のことか……それか、どっちかがしてた浮気の話だったのかもしれない。
どっちかが怒鳴ってて、どっちかが喚いてた。
どっちかが手を出しかけて、それでさらに叫びにも似た声が上がってた。
食事の最中に、私はスプーンをおぼつかない手で握りながら、漫然とそれを眺めてて。
内容なんてちっともわからないのに、なんでか胸が痛かったのだけはよく覚えてる。
あまりに響く声が怖くなって、震えた手で思わずスプーンを落としてしまった。
カランカランって、今でも鮮明に想い出せるくらいに大きな音を立てて、スプーンは私の足元に落ちていった。
それがきっと、私の一つの始まりだった。
大きな音を立てて落ちたスプーンを見て、ハッとなった両親は私を見て、それからお互いを見てどこか気まずそうな顔をした。
そうして母親が私を軽く叱って、父親は私に少しだけ愚痴を言った。
それだけで、その地獄みたいな口喧嘩はあっさりとひと段落をした。
同じようなことを、私はその後、何度も経験することになる。
例えば、私が転んだとき。
例えば、私が紙で指を切ったとき。
例えば、私が遊んでいたおもちゃを欠けさせてしまったとき。
例えば、私が傘を忘れて帰ったとき。
例えば、私が
この人たちの喧嘩はピタリと止まる。
それから、私に対して注意したり、小言を言ったり、叱ったりする。さっきまでうんと仲が悪かったのに、まるで息ぴったりの夫婦みたいな顔をする。
初まりはそう、ただそれだけの、ちっぽけな子どもの気付き。
両親の喧嘩を止める、些細なきっかけ。
スタートは、結局、それだけで。
そこから、私が学んだことも、今想えば、随分と独りよがりな結論だった。
どうにも『悪役が一人いると話は丸く収まる』らしい。
※
その気づきを経てからは、加速度的に私のふるまいは悪くなっていった。
学校でいじめが起きて、それでクラスの間で何日も話し合いが起きた。犯人はさっぱりわからないし、どれだけ時間をかけても名乗り出ない。まあ、何人か知っている子はいたはずだけど、報復が怖くて言い出せなかったんだろう。
やがて先生も他の生徒もいい加減、しびれを切らしてきた頃合いで、誰かが不意に私の名前を出してきた。
根拠のないただの憶測、でもそれに追随するように他の子どもも、あれよこれよというまに証言がぽんぽん出てくる。マジでやっていた子に対しては、そんな風にいっぱい喋らなかったくせにねえ。あとそれ絶対、私以外の奴を見間違えただけでしょみたいなのもあったっけ。
私の悪いところは、そこで別に否定しなかったとこ。まともに反応しなかったら、先生がとうとう怒りだして、結局私は犯人に祭り上げられた。
でもまあ、別にそれでいい気もしてた。いい加減、帰りの会で長々と話をされるのもうざかったし、それを機に不思議といじめは止まったし。まあ、いじめを受けていた子に泣きながらビンタされたのと、父親にその後ぶん殴られたのだけは痛かったけど。
別に私が悪くないことも、私が悪いと言うことにしておけば話は収まる。
家でも、学校でも、何にも変わらない。
のけ者にされたり、仲間外れにされることは多かったけれど、幸いそういうのが辛い質でもなかった。むしろ独りで静かな時間を過ごせることに、せいせいしていた気さえする。
小学生の時はそうやって、のけものはみ出し者扱いされ続けて。
中学に上がった時点で、隠れて煙草を吸うようになった。お酒の味も覚えたし、ピアスも開けてたから、生徒指導室に何度も呼ばれた。
高校に上がったら、夜遊び歩くようになって、警察との追いかけっこが上手くなった。まあ、後半はそれもめんどくさくなって、地域の居場所づくりボランティアさんのところによく入り浸っていたっけね。
ただ、そうやっているうちに、ふと気づけば自分が『悪いフリをしてる奴』じゃなくて、本当に『悪い奴』になっているのを自覚する。始まりがどうだったかは知らないけれど、今や私は端から見れば立派な不良生徒だ。でもまあ、それでもいいかと欠伸をしながら流してた。少なくとも、私が悪い奴でいるあいだ、両親は喧嘩しないし。
辛くなかったの? とボランティアさんに聞かれことがあった。
多分辛かったんだろうけど、その頃の私にはとっくに辛くなかった状況なんてのが思い出せなくなっていた。まあそれに、元から不幸や苦しみの感情に鈍感な方なんだったと想う。他の人が百も千も苦しまなきゃいけない物を、私は十とか一とかの苦しみで流せてしまう。
だから、それなら私が苦しみを背負うのは妥当だろうって想ってた。適材適所って奴だよと、高校生の癖に紙煙草を吸いながら笑ってたら、ボランティアのお姉さんは少し悲しそうな顔してたっけ。
その頃からだろうか、頭や身体の奥の方に鈍い痛みを感じるようになったのは。
それもあって、快楽の味は簡単に覚えたし、のめり込むのも早かった。
いかにも悪い奴って感じがしたし、何よりそうしている間は痛いのも少しマシだったから。
当時の私は、まともな集団にこそ入れないけれど、外れものは外れもので不思議と集まりがあるもので。そこで、悪い大人からたくさん悪いことを教えてもらってた。
煙草の味は十三で。
お酒の味は十四で。
セックスの味は十五で。
パチンコは十六の時に連れられて行ったけど、あれだけは長続きしなかった。あそこはうるさすぎて、耳が割れそうになる。
女の子の味を覚えたのは十七で。
加虐と被虐を覚えたのは十八か。
ヤクだけには手を出さなかったけど、我ながら賢しいというか、なんというか。
それから、ボランティアさんたちの勧めで大検を勉強して、なんとか大学に入っても生活はさして変わらなかった。
相変わらず爛れて、壊れて、快楽に溺れながら、とっかえひっかえ遊んでた。
だって遊んでいる間は、頭が痛いのがマシになるから。
快楽に溺れている間は、内臓の奥が痛いのを忘れられる。
煙草を吸ってる間だけは、酒を飲んでる間だけは、誰かと裸で抱き合ってる間だけは。
痛いことも、苦しいことも、辛いことも忘れてられた。
ただ、今想うと、それは結局、痛みと苦しみを借金のようにただ積み重ねているだけの、その場しのぎの行為にすぎなくて。
痛みや苦しみなんて、ほとんど感じないと嘯いていた私の心には、いつのまにか痛みと苦しみしか残らなくなっていた。楽しいとか、嬉しいとか、安心するとか、感じていたはずの色々がもうどうにもなくなってしまってた。
なんでこうなったんだっけと、今更考えても、もう遅い。
もうこんなこと止めようって、今更考えても手遅れだ。
その頃には私の身体は、煙草を、酒を、性交を、ただ忘れるために無限に注ぎ続けるしかなくなっていた。
仕事をするようになって、まっとうな人並みに紛れるようになってからは、尚のことそれが酷くなった。
なにせ私、早々に集団からいじめの加害者としてのけものにされたから、まともな人間関係の築き方がわからない。
それどころか、まともに人の集団の中にいることそのものが、自分にとってどれだけストレスかを改めて思い知る。どうにも私の脳みそにとって、人間の集団っていうのは自分を攻撃するもの、って既に覚え込んでしまってるみたいで。そういう風に、脳に傷がついてしまっているみたいだった。
沢山の人間に囲まれているだけで、ずっと恐怖と痛みと、苦しみを感じつづける。
それを誤魔化すためにアルコール……は仕事中にさすがに飲めないから、カフェインや糖分が多いコーラやコーヒーで誤魔化すことが多くなった。
依存する快楽っていう観点では、カフェインもアルコールもさして変わらない。
性関係が乱れに乱れたのもこの時期で、だからこそ、人に滅茶苦茶に言われたのもこの時期だ。
そりゃあ、自分の痛みを誤魔化すためだけにセックスするような奴、誰だって信頼したくないだろう。その違和感を誤魔化すために、相手の望むようなセックスばかりしていたら、なんだか段々今度は自分が疲れてきた。身体だけの都合のいい女も、虐めてあげる女王様も、いつでも抱かせてあげる安い女も、大人で素敵な恋人も、どれもかれも意外と疲れてしまうものだった。
不思議なことに、そうやって無理をしていると、相手も段々わかってくるらしい。多かれ少なかれ、そう言った関係はあまり長続きしなくって、私自身もその後、次の人を探すのが段々と億劫になっていった。
そんな生活をしているものだから、体調も終わってて。医者から、無事三十代を迎えたいんなら、生活を変えなさいって健康診断のたびに言われてた。
あー、はいはい、って毎度、笑いながら流してたけど。
心の奥では、まあ、別にそれはそれでいいかな、なんて想ってた。
だって、自分が四十とか五十とかなってる姿なんて想像もできないし。
当たり前だけど、そこまで生きてたら老いもくるし、病気もするし、見た目悪くなるし、きっともっと身体は痛くなるんだろう。そのうえで、人に嫌われて快楽に溺れてるような人生だ。一体何の意味があるのやら。
そんなに長く、この痛くて辛くて、それを誤魔化すだけの人生を送りたいとも思わなかった。
だから、医者にいくら文句を言われ続けても、酒も、煙草も、カフェインも、不摂生も止めなかった。早死にするなら、それはそれでいいとか考えてた。
いやあ、しょうもないでしょ。
本当、しょうもねえな、この人間。
ねえ、あこ、こんなのが『なぎさん』の本当の姿だよ。
住良木 凪の頼りがいも何もない、本当にダメな大人の姿だよ。
そもそもあこに対するお姉さんムーブだって、結局、高校生の頃に出会ったボランティアのお姉さんの真似でしかないじゃんね。
本当の私はちっぽけで、弱くて、醜くて、欲に溺れるだけの人間だ。
言えるわけないじゃん。こんなこと。
伝えられるわけ、ないじゃんね。
目が覚めて、帰ってきたあこに「なぎさんのこともっと知りたいです」なんて言われたけれど。
今、あこに見せている以上のことで、見せられることなんて欠片もないんだよ。
だからさ。
「ごめんね」
「今はあんまり、話したく―――ないかな」
あーあ、私ってホントに、弱い大人なんだよなあ。
あこの顔もうまく見れないまま、私はそう言って眼を閉じた。
これがまあ、所謂、私の『心の傷』ってやつの話だった。
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