第26話



 「というわけで、明日、早紀と一緒に買い物に行ってきます、なぎさん!!」


 金曜の残業も程々に帰り着いた炬燵の中、あこが作ってくれたオムライスに舌鼓を打っていたらそう勢いよく宣言された。


 いや、どういうわけだろう。っていうか、早紀って誰だ。


 あこの知り合いなんて、今、麻井の奴以外いるのかね……と考えたところで、ようやく誰のことかに思い至る。そういや、主任そういう名前だったね。


 「そりゃあ、また唐突だね……、え、二人で?」


 思わず困惑気味な私をよそに、あこは自信たっぷりで立派な胸を張っている。その疑問は予想していましたよと言わんばかりだ。


 「ふっふっふ、なぎさんはこう想っていることでしょう。毒とか発作とか大丈夫? 人ごみに出かけていいのか? と」


 「え……まあ、うん」


 だけど、ずびしと私に向かって、あこは人差し指をぴんと伸ばすと自信満々さを上乗せで口を開く。


 「いざというときのために、今回は売人の奴に監視もさせてます。さらに早紀にも簡単に事情も説明します。当日は最大限に着込みに着込んで、毒の遮断もばっちり。しかもルートまで決めて最速で買い物を終わらせます! これなら、私だって買い物ができるのです!!」


 自信たっぷり、準備万端を猛烈にあこはアピールしてくる。いやあ、しかし、それでもちょっと心配にはなるけれど。


 「おおう、準備万端……。というか、私がついて行くのが一番早くない?」


 そうすれば、主任に説明する必要も―――。



 「なぎさんは、来ちゃダメです!!」



 と、思ったけど、あこはそれだけは最初から決まっていたとばかりに拒絶してくる。


 「えー……なして」


 一応ごねてこそみるけれど、なんとなく聞かなくても答えはわかりきっているような気がする。


 「ダメったらダメなのです!!」


 どういうわけかはわからないけれど、あこには買い物にいかないといけない理由があるらしい。私抜きで、っていうのも多分意味があるんだろう。丁度、麻井の奴にあこのプライバシーのことで文句を言ったばかりだから、私がここで引き下がらないのも座りが悪い。


 まあ、ここまでいうんだったら、私がごねてついて行くような理由も特にない……よね。


 心配がないって、言ってるし多分、大丈夫でしょう。


 そう想いながら、オムライスを口に運んだ。


 うん、美味しい。鳥のうまみと卵の柔らかさがじゅわっと広がる。


 これだけ美味しい物を食べているのに、胃の奥が少し震える感覚がするのはなんでなんだか。





 ※




 というわけで、翌日の朝、未来から来たネコ型ロボットみたいにもっこもっこに膨れ上がったあこを見送った。


 お土産期待しててください、というあこの言葉に苦笑いしつつ、ねこくんと一緒にその背中に手を振る。手足がもこもこすぎて、本当にネコ型ロボットみたいな歩き方になってるのがまた笑える。



 というわけで、久方ぶりの一人の休日を過ごすことになったのだ。



 なにしよっかなあ、って背をうんと伸ばしてから、程なくして炬燵の中にいそいそと潜り込む。


 ま、とりあえずはゆっくりしようか。あこのおかげで溜まっている家事もないし、やらなきゃいけないことも特にない。



 何もない―――、本当に何もない休日だ。



 あれ、前はこういう日って、どうやって過ごしてたんだっけ……?


 思考を巡らせてみるけれど、思い当る情景はどれもノイズが走ったみたいではっきりしない。いろんな刺激や感覚の残響だけが、乱雑に記憶を乱していく。


 何してたんだろ、酒でも飲んでたのかな。


 それか煙草でも吸ってたか。


 ああ、大してご飯も食べない癖に、菓子やジュースばっかりは飲んでいたっけ。


 視るものもないのに、スマホをだらだらと眺めているときもあったっけ。


 後は――――誰かと寝たりしてたっけね。


 いや、それも数年ご無沙汰だった。もう独りでしてることの方が圧倒的に多くなってた。


 そういえば、特定の相手と関係を続けるのが面倒くさくなったのって、何時頃からだったっけ。何がきっかけでそんな風になっちゃったんだっけ。


 なんて、益体もないことを考えながら、炬燵から這い出て冷蔵庫に入っていたチューハイの缶を何本か引っ張り出す。


 カシュッと軽い音を立てて、炭酸が缶から少し吹き出る。軽く缶をあおってから、ポケットに入れていた電子タバコに火を入れる。……本当は窓辺で吸った方がいいけれど、今はあこもいないし、別にいいかな。


 たった一口で顔が赤くなり始めるのを感じる。相変わらずこの身体はアルコールにはクソ弱い。いや、大体の刺激に本当は弱いんだけど。でもおかげで、思考からごちゃごちゃとしたややこしいものが抜け落ちていくのを感じられる。


 ああ、いつもの休日って感じがしてきたね。


 刺激を入れる。脳が反応する刺激ならなんでもいい。


 快感と刺激を、まるで脳みそを麻痺させるみたいに私という器に注ぎ続ける。


 勢いのまま缶を全部喉に流し込んでから、もう一本の缶の蓋を開けた。


 甘い、甘すぎるくらいに甘い。


 そんな合成された糖分の刺激を感じながら、口の中に煙を流し込む。


 暖かい。


 甘い。


 気持ちいい。


 熱い。


 ぼやける。


 刺激を。


 もっと。


 もっと。


 もっと。


 思考が段々と、曖昧に滲んで、溶けてなくなっていくみたいな感じがする。


 ああ、そうだ。こういうときは、前は酒飲みながら独りで致してたんだっけ。


 麻痺した感覚は曖昧で、バカになってるから、多少乱暴にしても気持ちよくて面白かったっけ。そうやって傷つくような独り遊びを何度もしてた。身体に空いてるピアス穴は大体そういう時に出来たやつだ。


 そういえば、あこがいるあいだ、休日に致したりとかしてなかったし、たまにはやっちゃうかーなんて想いたった。


 スマホを開いて18禁サイトのページを開く。ぼやけた思考で意味もなくゲラゲラ笑いそうになりながら、それを見ようとして。



 ―――ふと、想う。



 あー、そういえば、私あともうちょっとで、あことえっちするんだったっけ。


 っていうか、あの子、誕生日でしょ? なんにも準備してないや、あと二週間しかないってのに。


 そもそもえっちすること自体が一年ぶりに近くて、最後の記憶も主任としたやつだから、酔いのせいでまともな行為って感じじゃないんだよね。


 あれ、実はすんごい久しぶりじゃん、私。ホントに、ちゃんとできんのかな。


 しかも相手は、そういう行為にトラウマ持ってる、初めての子。


 一度、考え始めると雪だるま式に不安は膨らんでいく。


 できるかなあ、ちゃんと気持ちよく、いい想い出にさせてあげられるのかな。


 そんなことを考えながら口から漏れたため息は、あまりに重くて陰鬱だった。思わず開きかけたサイトを消して、そのまま自分の腕に顔をうずめてしまう。


 あー、ダメだ。まずい、不安になってきた。


 ちゃんと気持ちよくできなかったらどうしよう。あこにこれ以上のトラウマとか背負わせちゃったらどうしよう。それで私の所から離れたら……とか、考えるだけで胃の奥がぐじぐじと痛んでくる。


 気を抜いたら、すぐ弱い私が顔を出す。


 ああ、くそ、酒が足りない。アルコールも、ニコチンも、カフェインも何もかもが足りやしない。


 まともに考えるんじゃない、正気になんて戻るんじゃない。


 くだらない不安なんて想いたくもないのに、脳みそは勝手に過去の嫌な記憶を掘り返してくる。


 『気持ちよくないんだよね、あんた』


 『身体細くて抱いてる感じがしないっていうか』


 『ほんとに楽しんでる? 感じてるの私だけじゃない?』


 『つまんなさそうな顔しないでほしいなー』


 『あんた本当に都合のいい女だね』


 『こういうことして欲しいんだけど! あと、あれも! これも!』


 『どう考えてもお前のせいだろ』


 うるさい、うるさい、うるさい。今そんなことを想いださせるな。


 酒をあおる、煙を吸う。でも足りない、何か刺激が欲しいのに。これ以上、注ぎ足せるものが思い当らない。


 アルコールが神経を犯してくる、煙が肺を侵してくる。そうして判断を鈍らせないと、私は私でいられれない。



 ああ―――、あこの前にいるときは、こんなんじゃないのにな。



 頼りがいと余裕がある経験豊富で大人な『なぎさん』。


 住良木 凪すめらぎ なぎの本当の姿とはてんで違う、ちゃんとした大人。


 そう、結局あれはカッコつけてるだけの、演じた姿。


 そういえば、昔から望まれた誰かを演じるのは得意だったっけ。


 『不良の子ども』になってみたり、『素敵な恋人』になってみたり、『都合のいい女』なってみたり、『ご主人様』になったこともあったっけ。


 望まれたことを望まれたように、誰かの心の奥に映り込む私の姿を、そのままここにある私の身体に当てはめるだけ。


 それだけ、だったのに。


 それで良いと想ってた、それが出来るのが自分だと想ってた。


 それなのに演じることに、疲れだしたのは、いつからだっけ。


 しかもそうして疲れた癖に、なんでまた私は『頼れる大人』なんて役を演じてるんだろう。


 ああ、でも、あれだね。


 色々人に望まれる役割はこなして来たけれど。


 この役は……苦しくなかったね。


 本当の私はあんなに『なぎさん』みたくしっかりはしてないけれど。


 あこにとって都合のいい誰かになることは、なんでか苦しくなかったんだ。


 なんでかな、なんでだろうね。


 望まれたことを、望まれたように。


 それになんの違いもないはずなのに。


 なんでだろうね。


 そうやって、微睡む中で誰のものでもない背中が、ふと一瞬、見えた気がした。



 ああ、そっか。



 きっと、多分、笑えるような話だけれど。



 きっと、



 頼れる大人、ちゃんと私の苦しみを聞いてくれる人。



 ちゃんと私のことを見てくれる人、ちゃんと私のことを解ってくれる人。



 そんな、誰かにとって、都合のいい頼れる大人。



 そんな人に、私が会ってみたかったんだ。



 いつか、辛くて苦しかった、いつかのころに。



 自分が救われる、そんな身勝手な夢を、あこに望まれる自分を通して見ていたのかな。



 ねこくんの鳴く声がする。



 ぼやけて、滲んだ感覚じゃあ、その声の出どころすらわからない。



 誰かの泣く声がする。



 その声の出どころを知っているけど、私は見えないふりをして、微睡む視界をそっと閉じた。



 大丈夫、目を覚まして、あこが帰ってきたら、いつもの『なぎさん』に戻ってる。



 だから、大丈夫。



 今だけは、弱くて身勝手で現実すらまともに見れない私のままで。



 大丈夫。



 言い聞かせろ。



 そう、大丈夫。



 目を覚ましたら、いつもの『私』だ。



 微睡みの中、暗い海にそっと手紙を流すみたいに、私はゆっくり自分の意識を手放した。



 今だけは誰にも望まれない、わたしのままで。



















 ※



 愛心



 ※


 「ただいまー!! あこが帰りましたよ! なぎさん! …………って、あれ?」


 勢いのままばーんとドアを開けて帰宅するあこです! 目当てのものもばっちり買えてご機嫌上機嫌。幸い変な輩にもからまれなかったし万々歳といったところなんですが―――。


 なんか、部屋が妙に静かな気がする、ただいまの返事もないし。


 あれ、もしかしてなぎさんいない? そう想うと、なんとなくハイテンションだったのが、恥ずかしくなってこそっと部屋の中の様子を盗み見る。出かけてるのかなーって想ったけど、こたつにはしっかりなぎさんの姿があった。


 なんだー、いるじゃないですかーって声をかけかけて、思わず手がちょっと止まった。


 すー、すー、って細くて静かな音が聞こえる。まるで子どもの寝息みたいな。


 なぎさんの背中はカタツムリみたいに丸まって、炬燵に突っ伏すみたいになってるし、その隣でねこくんも丸くなっている。


 あー、なぎさん、寝ちゃってるんだ。お酒の缶も転がってるし、休日だからって羽目を外しておりますな。


 「くふふ、ではなぎさんの寝顔ちぇーっく。写真撮っちゃおうかなあ、なんて、えへへ……」


 なんてニタニタと笑いながら、スマホを取り出してその寝顔をこそっと覗き込んだ時。


 私のスマホに掛けていた指がピタッと止まった。



 「……………………なぎさん?」



 確かに眼を閉じて寝息を立てているなぎさんのその頬に、何かが流れ落ちた跡があったから。


 それと眼もとに滲むようにたまった水滴も。



 ……………。


 なぎさんは、眠りながら泣いてたのかな。


 なんでだろう、…………理由は正直わからない。


 というか、なぎさんはどういうことがあったら泣くんだろ、それすら私はまともに知りもしないんじゃないのかな。


 荷物を下ろしてから、まだ小さな寝息を立てているなぎさんの隣にそっと腰を下ろした。


 それからなぎさんの真似をして、炬燵につっぷすように顔をうずめる。テーブルにくっついているなぎさんの顔を、同じような姿勢で見ながら考える。


 私はなぎさんのことが好きだけど、その気持ちをちゃんと受け取って貰えたし、他の誰にも話せないようなことも、たくさんなぎさんに聞いてもらったけれど―――。



 ――私自身は、なぎさんのことをあまりにも知らない気がする。



 この人がどんな人生を生きてきて、何を大事にしてて、どんな恋をして、本当はどんなことがしたいのか。


 どんなことで傷ついて、どんなことにトラウマがあって、どんなことが怖くて、何が嫌なのか。


 私はきっと、何も知らない。


 …………それって、ちょっと嫌だなぁ。


 いくらえっちして、お互い好きだって言い合えても。


 その裏でなぎさんが泣いているのを知らないままなのは、なんか……やだな。


 なぎさんの寝息を聞きながら、その滲んだ眼もとを見つめながら、私はそっと眼を閉じた。


 そうだ、目が覚めたら聞いてみよう、なぎさんのこと。


 身体は一緒になっても、心までは一緒になれないって、なぎさんは前に言ってたけれど。


 それでも、知りたいって、聞いてみたいって想うことはきっと間違いじゃないと想うから。


 だから、そう、目が覚めたら聞いてみよう。


 そんなことを想って、閉じた視界の中でなぎさんの寝息だけを聞いていた。


 次、目が覚めた、その時に―――。


 そんなことを考えながら。

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