第45話

愛心





 二時間半。


 たったの二時間半だった。


 私が数か月、歩き通しで離れた私の故郷と、なぎさんと過ごした街との距離は。


 たったそれだけ。


 売人の―――麻井の奴の車に載せられて、たったそれだけの時間で帰り着いてしまった。


 朝、なぎさんと最後にハグをしてお別れしてから、迎えに来た売人の奴の車に乗せられて、売人から今後の話を聞いているうちに気付けば到着していた。


 半年ぶりだけど、変わらずに見慣れた我が家。いつかの私が住んでいたところ。


 ふぅと息を吐くだけで、少しだけ身体から力が抜ける。心のどこかで、ここが落ち着く場所だというのを覚えている。


 ただ同時に、力が抜けているのに胸の奥がひずむような感じもする。


 ここは安心できる場所だけれど、同時に傷を負った場所だって、身体が私に警告する。


 なぎさんが持たせてくれたマフラーに顔をうずめて、軽く息を零した。


 「今後の流れは覚えましたか?」


 「『個人的にショックなことがあって家出した』


 『出た先のことは覚えてないし言いたくない』


 ………………こんな無茶苦茶な言い分通じるの?」


 車の中で聞いた台本は結局のところそれだけだ。逃げ出した先で、私が誰と出会ってどうやって生活していたかは、全部伏せるってことになった。そうしないと、なぎさんに迷惑がかかるからって。携帯も、もともと麻井から貰ったやつだから、今はそっちに預けてある。つまり、私がどういう風に過ごしていたかは、結局、誰にも明かさないってことだ。


 「通じる……というか、通じさせます。それ程度の無茶なら聞きますし、当人のあなたが事件性を訴えないのなら、警察もむやみに掘り下げるほど暇じゃありません」


 「ああ、そう…………」


 きな臭い話だけど、それでいいって言われているのだから仕方がない。むやみに掘り下げたときに、迷惑がかかるのはなぎさんだ。麻井の奴に都合がいいように進んでるのは、ちょっと癪だけど、背に腹は代えられない。


 「では心の準備はよろしいですか?」


 「ん」


 軽くうなずいて、私たちは自宅のインターホンを押して、家の主が出るのを待った。


 自分の家のインターホンを押すっていうのは、なんだか変な感じがする。


 ほどなくっていうほど、待つこともなく、あっという間にばたばたとして中で人が慌てているのが感じられる。


 想わう乾いた唾を、私は少しだけ飲み込んだ。


 弱い緊張と恐怖が薄く身体を縛り付けてくる。


 落ち着けるための息を少しだけ吐きながら、私は耳元のピアスをそっと触った。


 そうして、とうとう玄関の扉が勢いよく開いた。


 玄関から大慌てで顔を出した両親は泣き崩れんばかりに表情を緩めてる。


 その顔を見て、私は身体の奥から湧き上がる痛みと震えと、暖かさにも似た心臓の鼓動だけを感じてた。


 矛盾する二つの感覚が、私の身体を所狭しと埋めてくる。


 「………………おかえり、あこ」


 父親が涙に濡れながら、そう口を開いた瞬間に。



 言い知れない安堵と―――どうしようもないほどの恐怖がない交ぜになって身体の中を掻き乱していた。


 痛い。怖い。


 薄く口を開いて、何か言葉を返そうとするけれどうまく続かない。どころか、立っているのすら段々と辛くなってくる。


 母親が浮かべた安堵の表情が、段々と暗く沈んだものになっていくのが目に見えた。


 違う、そんな顔して欲しいわけじゃないのに。ただいまって、何も考えずに気楽に告げるはずだったのに。



 なのに、言えない。



 なのに、笑えない。



 あの日、私の服にかかりかけた指が、私の中のこの家庭での安堵の記憶を全てを、粉々に壊してしまったみたい。



 「…………ともあれ、一度、中に入りましょうか」



 麻井の奴がゆっくりとそう言って、私たち三人は暗い面持ちのまま頷いた。


 

 そこから先のことは、正直うまく覚えてない。



 親といつもの見慣れたはずの家に入って、見慣れたはずの食卓の上で、麻井が今後の流れを両親に説明した。『改めて』って枕詞をつけていたから、あらかじめ、両親にはもう話を通していたみたい。


 身体の毒のこと。


 私は現状、両親の元では暮らせないこと。


 学校は違う場所に通うこと。


 時々、連絡をすること。



 そんなことを確認して、時折両親がする質問に私はうまく答えも返せず顔も見れずに、首を横に振ったり縦に振ったりを繰り返しているだけだった。


 その間、ずっと身体は震えてて、ずっと胸の奥が痛かった。


 最初、安心に弛緩していた身体の部分すら、やがて段々と怖さと痛みの方が勝っていく。そのたびに、耳元の小さなピアスをそっとなぞって息を落ち着かせた。なぎさんのことを考えたら、少しだけ息がマシになる。


 ただそうしていると、両親は私のピアスについて何か尋ねたそうにした。でも結局尋ねてくることはなかった。


 一時間ほどそうやって話をしていたら、チャイムが鳴って警察が話を聞きに来た。話は主に両親が取り次いで、麻井の奴はそこに捕捉する形で話をした。麻井の奴郊外で車を走らせていたら、たまたま、私を見つけたということにしているらしい。胡散臭いにもほどがあるでしょうと想ったけど、警察は不思議なくらいなるほどと素直に聞いていた。顔がいいとこういうところでも、信頼があるのだろうか。それか、もっと偉いところに話が通っているのか。


 そうやって、色んな人と話をした。っていっても、胸が痛くて声もうまく出なくて、実際には話したっていうより、首を振ったりしてただけだけど。


 深夜にようやくひと段落着いた頃、麻井の奴がすっと腰を上げた。


 「そろそろ私はお暇しますが……あこさんは、どうされますか?」


 その頃には私の中の痛みはもうどうしようもなくなっていて、身体をうずめるように背を丸めているだけで精一杯だった。


 もし、調子が良ければこの家で一晩明かして、今までの話をするつもりだったけれど。


 息が荒れる、身体が震える、心が痛い。


 自分でもわけがわからないくらいに、身体は耐えられなくなっていた。


 そんな私を両親はただ黙って少し辛そうな面持ちで見ているのだけはわかっていて。


 なのに、何も言えなくて。


 本当は大丈夫だよっていうつもりだったのに。


 色々考えていたのに。


 最初はちょっとおどけたりして、なんてことはない顔をして、それからちょっと冗談めかして怒るふりをして、そうやって仲直りをするつもりだった。だって私の身体が原因で起こったことだし、この人たちは悪くないから、今までの私なら、それだけ許せるはずだった。


 そんなコミュニケーションを私はずっと生まれて十数年、この人たちと取ってきたはずなのに。


 実際は、言葉の一つも出なかった。息が絞れるだけで声の一つも出やしない。


 自分が情けなくて、本当は言わないといけないことが一杯あって、なのに全然言えなくて。


 向き合うって決めたのに。


 ちゃんと向き合ってなぎさんのところに帰るって決めたのに。


 腕が竦むだけで何もできない。


 喉が震えるだけで声も出ない。


 こんな、こんなはずじゃなかったのに。


 だって突き詰めたらこれは私のせいなんだから。


 私の毒のせいなんだから、私がちゃんとしなくちゃいけないことだから。


 「わた……し……は……」


 言え、大丈夫だって。


 心配をかけるな。


 私のせいでごめんねってそれくらい言わなくちゃ。



 ―――いけないのに。



 涙ばかりが零れてく、何もできなくてただ怖くて、ただ胸の奥ばかりが痛い。


 想いださないようにすれば、するほどの、あの時の、痛みが光景が何度も何度もフラッシュバックみたいに私の視界を奪ってくる。


 裸の両親。服にかかる手。正気を失った瞳。声。


 ああ、なんで。


 これくらい、いわなくちゃ。


 なのに。


 大丈夫ってそれだけが、言えなくて。


 息が壊れそうになった。


 心が割れそうになった。


 何もかも、耐えられなくなってしまいそうになった。


 だけど。






 「大丈夫だから」






 そうやって、言葉にしたのは。






 「大丈夫だ」






 私じゃなかった。






 「本当は、今も、私達と一緒に居るの辛いんでしょ?」





 痛みに滲んだ視界の中で、お母さんは少し悲しそうな顔で、それでも微笑んで私を見ていた。





 「無理をしなくていい、それくらいお前には怖いことだったんだろう?」





 どこか痛ましく、それでも私のことをじっと見てお父さんは口を開いてた。





 「ごめんね、あの時、怖かったね。今日も本当は怖いのに、私達に会いに来てくれたんでしょう?」





そう言ったお母さんの頬からも、少しずつ涙が零れ始めていて。





 「今日、私たちはお前に―――あこに謝れたら、それでよかったんだ。私達のした過ちをただ、謝りたかった。それだけで充分だったんだ、だから……今日こうやって顔を見せてくれて、……ありがとう」





お父さんも声が震えてて、それでもじっと私のことを見つめていた。





 「これから一緒に暮らせないのは悲しいけれど、私たちは、それだけのことをしてしまったでしょ。……だから、あこが本当に笑えるなら、離れて暮らすことも仕方ないって想えるから、だから大丈夫よ」






 もう何も見えなくて。





「こんなことを言って、お前が信じてくれるか、許してくれるかはわからないが―――――」






 もう何も言えなくて。







 「私たちはね」「俺たちは」




 「あこが」「お前が」




 「幸せならそれでいいから」「許せなくてもそれでいいんだ」




 「上手く話せなくてもいいから」「会えなくても大丈夫だ」




 「ずっと祈っているから」「お前のいたいと想う場所に居なさい」




 「だから元気でいてね」「俺たちはずっと見守っている」








 「ありがとう」「ごめんな」









 零れた涙はどうすれば止まるんだろう。



 胸の奥に空いた傷跡はどうすれば埋まるんだろう。



 何か言葉を返したいのに、喉はうまく震えてくれなくて。



 泣きながら頷くことしか出来なくて。



 両親は優しく、ほんの一瞬だけ私の肩に触れた。



 怖くて。



 優しくて。



 痛くて。



 暖かくて。




 ない交ぜになった気持ちに、名前の一つもつけられなくて。




 ただ、泣くことしか出来なかった。




 もう戻らない何かに向けて。




 ただ、涙を流すことしか出来なかった。

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